いろいろな仕事の合間に、断続的に『大般若経』(国訳一切経版、6分冊)を読んでいます。
先に第6分冊目*を読み終え、第1分冊に取り掛かってから、どのくらい経ったでしょう(調べてみたら、もう9ヶ月近くになっています*)。
ようやく第1分冊(六百巻のうち七十五巻まで)を読み終えたところです。
実に多様な、豊かな学びをさせてもらっていますが、特に最後の七十五巻の「初分浄道品第二十一之一」に「六波羅蜜多に各二種有り、一には世間、二には出世間なりと」とあって、禅定=静慮(じょうりょ)にも俗世間的なものと超世間的なものがあるという注意がなされているのに感じ入りました。
シャーリプトラが言った、どのようなものが世間的な禅定ですか。スブーティが答えて言った、もし菩薩・大士が禅定を実修しても、拠りどころあって次のような考えをする(場合である)。私は一切の心ある生きものに利益を与えるために禅定を実修する、私は仏の教えに従って優れた精神統一に関して正しく修行している、私は禅定を実修している、等。……彼は三つの要素に執着して禅定を実修している、一には自分という想念、二には他者という想念、三には禅定という想念である。この三つの要素に執着して禅定を実修しているので、世間的な禅定とするのです。
シャーリプトラが言った、〔では〕どのようなものが超世間的な禅定波羅蜜多なのですか。スブーティが答えて言った、もし菩薩・大士が禅定を実修する時、三つの要素が清浄だとしよう、一には私が禅定を修行していると執着しない、二にはそのためにしているのだと心ある生きものに執着しない、三には禅定(そのもの)とその成果に執着しない。これを、菩薩・大士が禅定を実修する時、三つの要素が清浄だとするのです。
舎利子言はく、云何が世間の静慮(じょうりょ)なるやと。善現(ぜんげん)答へて言はく、若し菩薩摩訶薩、静慮を修すと雖も而かも所依有りて謂ゆる是の念を作す、我れ一切有情を 饒益(にょうやく)せんが為に静慮を修す、我れ仏の教えに随ひて勝等持(しょうとうじ)に於て能く正しく修習す、我れ静慮を行ずと。……彼れ三輪に著して静慮を修す、一には自想、二には他想、三には静慮想なり。是の三輪に著して静慮を修するに由るが故に、世間の静慮と為すと。
舎利子言はく、云何が出世間の静慮波羅蜜多なるやと。善現答へて言はく、若し菩薩摩訶薩静慮を修する時三輪清浄ならん、一には我れ能く定を修すと執せず、二には為す所の有情に執せず、三には静慮及び果に著せず。是れを菩薩摩訶薩、静慮を修する時三輪清浄なりと為す。
舎利子・シャーリプトラは、ブッダの弟子の中で智慧が最高と讃えられた人であり、須菩提=善現・スブーティは空の理解が最高と讃えられた人です。
引用したのは、この二人の問答によって、普通の、世間的な、つまり分別知に捉われた禅定と、真の、超世間的な、無分別智による禅定の違いを明らかにしている個所です。
実体としての私が、実体としての生きものたちのために、実体としての禅定を修行するのだ、と思っている間は、本当の禅定にはならない、というのです。
私も空、生きものも空、禅定さえも空、禅定の三つの要素も一切空つまり一切無分別となってこそ、ほんものの禅定です。
「私は、深い禅定ができるようになって、境地が深まって、人の役にも立てるような人間になれた」などと思っているうちは、まだまだなんですね。
道元禅師が「只管打坐(しかんたざ)」といわれたのは、そういう空三昧の坐禅ということであって、ただ坐っていればいいということではないことを、改めて大般若経を通して確認したという気がします。
私もまだまだ、だから、これからだ、と思いを新たにしました。
学びには終わりはない、と思います。
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私も人も、そして禅定すら思っていない坐禅の境地とは、ほんとうにすごいですね!
しかしむずかしそうです~
「世間の禅定」でもいいからまずやらねば!
紹介されているキリスト教の言葉も仏教の言葉も、まさに人類の叡智のことばだと感じました。
自分の今いる場所からいっぺんにそこに行こうとすると
それはむずかしいように思えますね。
でも、私たちは一歩一歩学びの道を進んでいきましょう。
いつか その時「十方にあると見えた壁は落ち、四方にあると見えた門は姿を消す」と道元も言っているようです。
・自分はまだ資料位に居て、加行位に向けて片足を踏み上げた程度であり、この後の加行位行程に前途遼遠さを痛感します。岡野先生のお言葉「前途良縁」に励まされて、学びを続けようと思います。
・同じことは、日本再生長期行程についても言えると思われます。
人類――真介さんも私その一員です!――には、こんなにすごい遺産があるのですね。
相続しない手はありません。
まずは「世間の禅定」から、やがて「出世間の禅定」を。
>YOKOさん
みんなで一歩一歩進みましょう。
たどり着いたら、実はもともとそこにいたことがわかる、という仕掛けになっているそうですが、そうは言っても、まだわかりきっていませんからね。
>hitoshiさん
「前途良縁」と申し上げましたが、さらに「禅途良縁」とも申し上げたいと思います。
禅には「途中が実は家である」という言い方があります。あるいは、「仏道は至り着くものではなく、歩き続けるものである」という言い方もあります。
世間のものかどうかはあまり気にしないで、ともかく禅定しましょう。
今回のお話もとても勉強になりました。
大般若経にすでに空の見地に立った坐禅が説かれているんですね・・・。
しかもきわめて明快。
驚きました。
只管打坐の解釈についてですが、道元禅師が「毫釐も差あれば、天地懸に隔り」と言われるように、ただは「ただ」でも空三昧の只管打坐と、ぼんやりのただ坐っているのでは天地の開きがあるんですね。
よくよく気をつけなければいけません・・・。
一時の坐禅であっても、漫然と坐るのではなく、一息一息、真剣に坐りたいと思いました。
とりあえず、これからも坐り続けます。
坐ってますね。
私も坐ってます。
なかなか三輪清浄の坐禅というわけにはいきませんが……
でも、坐らないより坐ったほうが自分のためであることは確実ですよね?
続けましょう。