わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。
途方にくれても行き詰まらない。
迫害に会っても見捨てられない。
倒されても滅びない。
いつもイエスの死をこの身に負うている。
それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである。
(新約聖書「コリント人への第二の手紙」第4章8-10節)
キリスト教の大使徒パウロの言葉です。
ここで語られている「イエス」は単なる歴史上の人物でも、単に原理主義的キリスト教で絶対視されている救世主のことでもない、と私は解釈しています。
むしろ「ほんとうの人間」、志のために生きて死んだ人のことだと思うのです。
もちろん、イエスはその代表的な存在の一人ではあります。
私たちが、ただ楽にとか、楽しくとか、儲けて生きることだけでなく、意味を感じて生きて死ぬことを目指したいのなら、イエスの生と死は最高のモデルです。
志に生きて、そして死んだその「死」を自分自身の覚悟として受け止めている人間は、どんな困難をも人生の課題・志を達成するための機会として捉えることができます。
私の生と死を通じて、ほんとうの人間性・ほんとうのいのちが輝き出ることが人生だと思った人間には、敗北はありえないのです。
だから、ふつうでいうともうどうにも「途方にくれても」、それでも「行き詰らない」、何度ダウンさせられても敗北しないのです。
それは、それでも、コスモスは進化する、大いなるなにものかの意思は貫徹されるからです。
人生の苦境にあるみなさん、そのことを思い出して、元気を出しましょう。
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