水滴と道元禅師と

2007年07月07日 | 生きる意味





 ある方にご紹介いただいて、大本山永平寺の『傘松(さんしょう)』という雑誌に、「持続可能な社会――環境と心の問題」(仮題)といったテーマで8月号から2年間連載させていただくことになりました。

 道元『正法眼蔵』を長い間学んできて、『道元のコスモロジー』(大法輪閣)という本も書き、今も中級講座で「看経」の巻の講義をしており、最近は曹洞宗の布教師会の講師をさせていただくことも多く、福岡の曹洞宗のお寺で年4回の仏教講座の講師や法話もさせていただき、この夏は大船の曹洞宗のお寺でも法話をさせていただくことになるなど、道元禅師-曹洞宗とのご縁がどんどん深まっています。

 日本の精神文化の伝統を日本人全体に再発見してもらうためのもっともふさわしい担い手として、僧侶の方々――これまでのご縁で特に禅宗の方々――に期待するところが多いので、とても喜んでいます。

 雑誌のタイトルはたぶんここから来ているのかなと思ったこともあって、久しぶりに道元禅師の歌集『傘松道詠(さんしょうどうえい)』を開いてみました。

 頁を繰っていて、雨の季節にふさわしい歌があったのを思い出しました。


 聞くまゝにまた心なき身にしあらばをのれなりけり軒の玉水


 無心に聞いていると軒から落ちる雨の滴と自分が分離していない、一体であることが感じられた、というより、一体であることに気づいたというのです。

 「聞くままに」というのは、聞くことのありのまま・如ということで、そこに自分の損得や好き嫌いといった私心を交えないでありのままに聞くと、聞いている私と聞かれている雨の滴の音がもともと一体の宇宙・悉有(しつう)であったことが気づかれるのです。

 「心なき身」と表現しているところに「身心学道(しんじん学道)」、全心のみならず全身を挙げて修行することを重んじられた道元禅師らしさが感じられます。

 「をのれなりけり」の「けり」という言葉に、気づきが「そんなこと前から知っている」というふうな我見・我慢のない、そのつど新たで新鮮なものであることが表現されていると思います。

 気づき・覚りは一回で終わりではなく、絶えず新たにより深く、ということなのではないでしょうか。

 それが禅師の言われる「修証一等(しゅしょういっとう)」、修行と覚りは1つであるということ、「仏向上(ぶつこうじょう)」ということなのではないか、と私は捉えています。

 説明はともかく、とても新鮮で透明感のあるいい歌ですね。

 もっとも、もしかするとこれは、梅雨時の雨の滴ではなく、雪国の春先、解けるつららの滴の音の歌なのかもしれませんが、いずれせよ、音だけではなく、丸くて透明できらきら光っている水滴の様子までありありと目に浮かぶような歌です。

 『新古今和歌集』の選者であった父や祖父(? 説が確定していないようです)の血をひいた道元禅師の感性・詩人性がよく現われていると感じられます。



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コメント (2)
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