なぜとまらなかったか2:民主主義の未成熟と日本人の自然観

2006年09月01日 | 持続可能な社会

 60年代の思想・ジャーナリズムの世界でも「民主主義の未成熟」が問題にされたことがありました。最近では、あまり話題にもならないようですが。

 考えてみると、この40年ちかく、日本では民主主義は未成熟のままだといってもいいようです。

 選挙の投票率が、ひどいと25パーセント程度のことがあるのですから、これでは代議制民主主義になっていないといってもいいでしょう。

 別の言葉でいうと、日本人の多くはいまだに「庶民」または「大衆」であって、ヨーロッパ型の「市民」にはなっていないということでしょう。

 江戸時代の「民」は、政治のことはもちろん「お上」任せで、日々の暮らしのことで精一杯、また暮らしのことに専心することがいいことだ、と教えられていました。

 「依らしむべし、知らしむべからず」という言葉があったとおりです。

 この江戸の庶民教育の影響が戦後の民主主義教育の不徹底のため今日まで尾を引いている、と考えて間違いないでしょう。

 それに加えて、日本人に独特の自然観の影響もあるのではないかと思われます。

 これは、筑波常治氏の『自然と文明の対決』(日本経済新聞社、1977年)で読んだのだと記憶していますが、今手元に本がないので、私の理解した範囲で話します。

 日本人は自然を愛する国民だといわれるわりには、自然を破壊しているのはなぜか、という問題があります(これは、特に公害が目にあまる状態だった頃の問題意識ですが)。

 それは、欧米の人々がキリスト教的に自然を神から管理するべくゆだねられたものと捉えるので、これがマイナスに働くと与えられたのだから勝手に使ってもいいと考えられて自然破壊につながるが、もう一方しっかり管理する責任があるという考え方になるとそこから自然保護思想や生態学が生まれてくる、というのです。

 ところが、日本人は、自然を母のようなものだと捉えていて、どんなに汚しても後始末をしてくれ、どんなに我がままをしてもすべて受け容れてくれる存在だと考えている、というのです

 そして、自分がもう思春期の男の子のように母親よりはるかに腕力が強くなり、「おふくろ、こづかいよこせ」と我がままをいって、くれないとなぐり、かならずしも意図していなかったのに母親に大怪我をさせてしまうようなものだ、と。

 自然(母親)の自己浄化力(後始末)と資源の量(おこづかい)が無限だと思い込んでいる。自然に対して悪い意味で甘えている、のが日本人の自然観だ、というふうに筑波氏は指摘していたと記憶しています。(本が見つかったので引用記事とリンクしました。)

 「なんとかなるさ=何か(自然)がなんとかしてくれるさ」と「(自然の)流れに身を任せ」ながら、つまり自然に甘えながら、暮らし(経済)のことに専心する、それはいいことだ、という思いがいまだに日本人の多くの心の奥の思い込みとしてあるようです。

 そうした日本人の心性(メンタリティ)をみごとに表現しているのが、次のような二宮尊徳の歌です。

 この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田の草を取る

 未来のことは自然に任せておけば、起こることはせいぜい台風くらいで、それも「台風一過秋晴れの下」、力を合わせて立て直せば何とかなる。だから、そんなことを心配していないで、今日の仕事を一所懸命やればいいのだ、というわけです。

 これは、日本が農業社会である時代には適していたでしょうが、もはや工業社会、そして脱工業社会へと向かいつつある時代に、そのままでは不適応を起こさざるをえない、ある意味で幼児的な心性です。

 私たちは、近代の人間の経済-技術的な行動が環境に深刻な影響を与え、それはいまや私たちに返ってきつつあることをはっきり自覚し、それをどう修復し、エコロジカルに持続可能な世界をどう構築するかを考えられる、大人のメンタリティを獲得する必要があるのではないでしょうか。




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