「あらゆる権力は腐敗する」?

2006年09月25日 | 持続可能な社会

 ここで、最初に言った結論をくり返しますが、4象限の条件すべてを調えることができれば、プロセスは困難だとしても、持続可能な人類社会の実現の可能性はあるということです。

 そこで、私は自分の研究所を通じて、必要な条件についての基本的な認識を確立し、それから広く合意を獲得し、それからできたらそれを運動に高めていきたい、そういう運動のリーダーを育てる機関として総合学園も設立していきたいと考えてきました。

 最後に、私のそういう発言・行動に対してまわりの方たちが感じ、忠告してくださった「危険」について、ここで、あえてお答えしておきたいと思います。

 まず何よりも、危険があることは事実だ、と私自身考えています。

 新しいことをすること、しかも集団あるいは運動としてすることには、必ず大なり小なり腐敗の危険がともなうものだからです。

 ふつうの人間には必ず、潜在的な自己実体視・自己絶対視の傾向――唯識でいえば〈マナ識〉――があり、足をすくわれる、腐敗する危険がいつでもあります。

 そして、自己絶対視の傾向のある人間同士で事を始めると、絶対化された自己主張のぶつかりあいが起こり、こだわりの強い人間が力をもって他の人を支配することになる危険もたえずあるわけです。

 そういう危険を単純に避けたいと思ったら、自己主張がぶつからないように、支配したりされたりしないように、いつも人と距離を取っておくしかありません。

 私の見るところ、例えばネットワーキングという方式は、そういう自己絶対視によるトラブルを最小限にとどめるため距離の取り方として、なかなかよく考えられた工夫です。

 もし、ネットワーキング方式で、しかも社会の主権を握ることなしに、社会がよくなる、持続可能な社会が出来るのなら、それでいいのです。

 しかし、くり返し言うように、この30年以上、それはできなかったし、これからもできない、どころか問題はどんどん悪化していきそうだ、というところに問題があるのです。

 私はどんどん進行する環境破壊のデータを追いかけているので、運動や組織を作るのは「危険だ」と忠告してくださる方にあえて問いたくなるのは、「こういう大きな危険と、それをなんとかしようとして運動を起こすことの危険と、どちらがより大きな危険だと思いますか」ということです。

 運動・組織の腐敗・堕落の可能性という小さな危険を恐れて、進行している大きな危険を放置することは、それこそおそろしく危険なことなのではないでしょうか。

 そうしたことを考えながら、私があえてある種の組織を始めているのは、次のように考えたからです。

 ふつうの人間には、確かに志と野心(〈マナ識〉の働き)が混在しているものです。それは、善意の人でも避けられないことです(唯識的に言えば、善意自体マナ識の働きなのですから)。

 ですから、いっさい野心がなくなってからでないと組織や運動を立ち上げてはいけないとすると、まずほとんど誰にもできないことになるでしょう。

 ところが問題は、結果として環境破壊をもたらすような組織や運動、というより巨大な「社会システム」がすでに存在していて、現に働いているということです。

 止めようとするものがなければ、やがて崩壊して、いやおうなしに止まってしまうというところに到るまでは、止まらないでしょう。

 そこで、もし崩壊を止めるための組織や運動はやはり必要だとすると、どうしたら、そういう組織や運動の腐敗を最小限にくい止めることができるかということです。

 私は、ふつうの人間がやることに腐敗ゼロなどということがあるという、子どもじみた理想的な空想はしていません。

 そうではなく、腐敗・堕落を最小限、許容範囲にとどめることができるかどうか、どういう大人の工夫ができるかが問題だと思っています。

 そして、その外面的・システム的な保証は、まず構成メンバーについて徹底的に出入り自由にしておくことだと考え、私の研究所では、長年その原則を貫いてきました。

 といっても、私の研究所は、政治・経済も含めた新しい文明、自然成長型文明の創造のための人材育成を目指すもので、直接的に政治に関わる意思はありません。

 政治的な組織であれば、さらに指導者のリコール制も必要でしょうが、学びの一貫性ということからいうと、むしろ私塾的に一つの方針を貫くほうがいいと考えて、合議―多数決制は採っていません。

 さらに、その内面的な保証としては、指導者もメンバーも、少なくとも自分の中の志と野心の混在に気づいていることが必要ですし、限りなく志の部分を大きく、野心の部分を小さくしていくよう、自己成長を続けるという意思も必要でしょう。私が何よりも力を注いできたのは、その点です。

 それでも、なお、未完成な人間がやっていることである以上、「おかしくなる危険」は残るでしょう。

 しかし私は、自分も含めておかしくなる危険よりも、進行する崩壊を見過ごし、放置する危険のほうが、はるかに限りなく大きな危険だと思い、あえて一歩を踏み出してきましたし、みなさんの参加もお誘いしています。

 さらに、何度も言っていますが、最近知っていい意味で大きな衝撃を受けたのは、スウェーデンの実例です。

 スウェーデン民主主義については、ほとんど岡沢憲芙氏の研究から学ばせていただきました。何冊も読みましたが、なかでも一冊だけおすすめの本を選ぶとしたら、岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』(岩波新書)です。

 それらの研究を読むかぎり、指導者の倫理性(左上)と、そうした指導者を次々を生み出しそういう人を選ぶという国民性・国民文化(左下)と、そうした指導者たち自身が創り上げてきた腐敗を最小限にとどめる社会・政治システム(例えば情報公開制、オンブズマン制など)が調っていれば、腐敗最小限の政治は可能だ、と判断していいようです。

 私自身つい最近まで捉われていた「あらゆる権力は腐敗する」という命題(テーゼ)がありますが、それは歴史的実例としてファシズムやスターリニズム化した社会主義国ばかりに注目してきたための考えすぎで、国際調査によれば、北欧諸国やスイス、オーストラリア、オーストリアのように「あまり腐敗しない権力も存在しうる」と考えてまちがいないようです(もちろんゼロだなどと理想化はしているわけではありません)。

 環境と経済のバランスに関してだけでなく、政治・民主主義のシステムについてもスウェーデンは1つの学ぶべきモデルだと思います。

 スウェーデンなどの成熟したデモクラシーについて学ぶことによって、私たち日本人が長いこと罹っていた「政治アレルギー」の治癒が可能になるのではないか、と私は期待しています。

 もちろん、こうしたことをお読みいただいても、やはり危険を感じて遠ざかることも、まだ参加はしないけれど関心はもち続けていただくことも、あえて危険を冒して本格的に参加していただくことも、どれもオーケーですが、次の世代の子どもたちの未来のために、できれば一人でも多く本格的に参加していただきたいと切望しています。



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コメント (2)
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