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女性の役割をめぐる問いへの答え

2007年09月22日 | いのちの大切さ
 
先日の「妻と母についての心に沁みる詩3編」のコメント欄に、女子学生の方からとても真摯な質問がありました。

 コメント欄でもある程度、お答えしておきましたし、このテーマは一度本格的・体系的に述べたいとも思っていますし、卒業後も研究所に関わってくれている学生たちにはかなり納得できたと言ってもらえるくらい徹底的なゼミも行なっていますが、とりあえず、過去の記事の目次を内容の流れに沿って挙げておきますので、ぜひ読んでみてください。


05.11.02 「性――このすばらしいものの創発」

06.07.02 「性と多細胞:魅力と協力の創発」

06.07.03 「つながってこそいのち、つなげてこそいのち」

07.09.06 「自己実現という名の自分勝手」

05.10.05 「自分で自分を生んだ人はだれもいない」

05.10.06 「いのちのつながりと重さ」

05.10.07 「I was born」

07.07.28 「好きな詩・詩人3 吉野弘」

05.10.08 「自己は自己でないものによって自己である」

07.09.08 「いのちの自己実現」

07.09.12 「好きな詩・詩人5 石垣りん」

07.09.09 「いのちのつながりを歌った詩:糸まきをする母と娘」

07.09.17 「妻と母についての心に沁みる詩3編」

07.09.10 「有限な人生の質:最期によかったと思えるかどうか」





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好きな詩・詩人5 石垣りん

2007年09月12日 | いのちの大切さ

 石垣りんさんとは、一度だけ電話でお話をさせていただいたことがあります。

 編集者時代、原稿をお願いした時のことです(残念ながら断られましたが)。

 「鈴を振るような声」と評判のお声は電話でもまさに鈴を振るように美しい声でした。

 その頃、詩人の方たちが自作を朗読する会があったようで、石垣さんの朗読の時行ってみたいと思いながら、忙しさにかまけて機会を逸してしまいました。

 残念なことをしたな、と今でも思います。

 石垣さんの詩は、どこかで次の詩を読んで感動し、『石垣りん詩集』(思潮社)を買ってきて、それ以後愛読してきました。


    私の前にある鍋とお釜と燃える火と

                 石垣りん

  それはながい間
  私たち女のまえに
  いつも置かれてあったもの、

  自分の力にかなう
  ほどよい大きさの鍋や
  お米がぷつぷつふくらんで
  光り出すに都合のいい釜や
  劫初(ごうしょ)からうけつがれた火のほてりの前には
  母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。

  その人たちは
  どれほどの愛や誠実の分量を
  これらの器物にそそぎ入れたことだろう、
  ある時はそれが赤いにんじんだったり
  くろい昆布だったり
  たたきつぶされた魚だったり

  台所では
  いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
  用意の前にはいつも幾たりかの
  あたたかい膝や手が並んでいた。

  ああそのならぶべきいくたりかの人がなくて、
  どうして女がいそいそと炊事など
  繰り返せたろう?
  それはたゆみないいつくしみ
  無意識なまでに日常化した奉仕の姿。

  炊事が奇しくも分けられた
  女の役目であったのは
  不幸なこととは思われない、
  そのために知識や、世間での地位が
  たちおくれたとしても
  おそくはない
  私たちの前にあるものは
  鍋とお釜と、燃える火と

  それらなつかしい器物の前で、
  お芋や、肉を料理するように
  深い思いをこめて
  政治や経済や文学も勉強しよう、

  それはおごりや栄達のためではなく
  全部が
  人間のために供せられるように
  全部が愛情の対象あって励むように


 私は右寄りと誤解されることを怖れず、機会あるごとに、「女性には女性らしくあってほしい。もちろんそれには、男も男らしくなければならないけどね」と言ってきました。

 「男と女がまるでおんなじになったら、どこがおもしろい? どこがいいんだ? 実に味気ない、つまらない世界だと思うけどね。」

 石垣さんのこの詩を読んだ時、我が意を得たりという感じでした。

 女性が女性の役割を肯定し、そもそもその意味が「それはたゆみないいつくしみ/ 無意識なまでに日常化した奉仕の姿」であることを、こんなにも深く自覚した言葉は今どきなかなか聞けるものではありません。

 しかも、それは多くの先祖たち、母たちの量り切れないほどたくさんの愛情の営みだったことが自覚されています。「その人たちは/どれほどの愛や誠実の分量を/これらの器物にそそぎ入れたことだろう」と。

 愛情の営みであるかぎり、それは単なる労働・労苦ではなかったのです。

 「台所では/いつも正確に朝昼晩への用意がなされ/用意の前にはいつも幾たりかの/あたたかい膝や手が並んでいた。//ああそのならぶべきいくたりかの人がなくて、/どうして女がいそいそと炊事など/繰り返せたろう?」とあるように、それは自分のためではなく、愛する人のためであり、そしてそれは「いそいそ」とはりや喜びをもって行なうことのできるあたたかい営みだったのです。

 そういう営みは、「女性の自己実現」だったのではないでしょうか。

 それに対する反論は山ほどあることを承知しています。また、それに対する徹底的な反論の用意もありますが、ここではそういう野暮なことはしません。

 ただ、読者にどう思うか――感じるか、そして考えるか――問いかけさせていただこうと思います。

 一言だけ、私は並みのフェミニスト以上に女性を大切に思っているという意味でフェミニストだと自認していますし、よく話すとわかってくださる女性のフェミニズムの論客も多いことを付け加えておきます。




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いい詩:最後だとわかっていたなら

2007年08月25日 | いのちの大切さ


     最後だとわかっていたなら

              ノーマ コーネット マレック / 佐川 睦 訳


  あなたが眠りにつくのを見るのが
  最後だとわかっていたら
  わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
  神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう
 
  あなたがドアを出て行くのを見るのが
  最後だとわかっていたら
  わたしは あなたを抱きしめて キスをして
  そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう
 
  あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
  最後だとわかっていたら
  わたしは その一部始終をビデオにとって
  毎日繰り返し見ただろう
 
  あなたは言わなくても わかってくれていたかもしれないけれど
  最後だとわかっていたら
  一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
  わたしは 伝えただろう
 
  たしかにいつも明日はやってくる
  でももしそれがわたしの勘違いで
  今日で全てが終わるのだとしたら、
  わたしは 今日
  どんなにあなたを愛しているか 伝えたい
 
  そして わたしたちは 忘れないようにしたい
 
  若い人にも 年老いた人にも
  明日は誰にも約束されていないのだということを
  愛する人を抱きしめられるのは
  今日が最後になるかもしれないことを
 
  明日が来るのを待っているなら
  今日でもいいはず
  もし明日が来ないとしたら
  あなたは今日を後悔するだろうから
 
  微笑みや 抱擁や キスをするための
  ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと
  忙しさを理由に
  その人の最後の願いとなってしまったことを
  どうして してあげられなかったのかと
 
  だから 今日
  あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう
  そして その人を愛していること
  いつでも いつまでも大切な存在だということを
  そっと伝えよう
 
  「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を
  伝える時を持とう
  そうすれば もし明日が来ないとしても
  あなたは今日を後悔しないだろうから




 知りませんでしたが、この詩は「テロで亡くなった消防士の詩」として9.11、アメリカ同時多発テロの後、追悼集会で読みあげられ世界中に配信され、大きな感動を呼んだものだそうです。

 ほんとうにいい詩ですね。ご存知の方も多いでしょうが、私同様まだの方も多いと思いますので、シェアしたいと思います。

 実は、今朝、ロハス商品のコマーシャルと一緒に配信されてきたものです。これはとても好感のもてるコマーシャルです。

 私は、親戚の子や教え子の結婚式ではいつも――授業でもしょっちゅう――「人生は有限だよ。ほんとうはケンカや戦争してムダにしていいような時間は1秒もないんだよ」とお説教します。

 これからは、この詩を朗読するのもいいかな、と思っています。

 その前に、自分でよく味わったほうがいいですね(反省)。



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孫娘とのおままごととコスモロジー

2007年04月04日 | いのちの大切さ

 孫娘の相手をしながら、明日のコスモス・セラピーの講座の準備をしました。

 今日の主なメニューはおままごとでした。

 ばーば=かみさんが食事を作るのを見ながら、孫娘が「わたしもお料理したい」というので、色粘土をいろいろにして、お料理ごっこ・おままごとをしたのです。

 心から楽しそうに遊び、安心しきって私やかみさんに甘えてくる孫娘の様子に、いのちのつながりということと、心の絆ということを実感しました。

 宇宙137億年の歴史の積み重ねが、私のいのちと心になり孫娘のいのちと心につながり伝わっているのですね。

 137億年のどこがどうほんのわずか違っても、私とこの子はじーじと孫として出会うことはなかったわけです。

 そのことに気づくと、孫と遊ぶという平凡なことも奇跡的な出来事だと改めて思います。

 ビッグバンで宇宙が始まったから、今日のおままごとがある。

 銀河が創発したから、今日のおままごとがある。

 46億年くらい前に太陽系そして地球が創発したから、今日ここで孫娘と私がおままごとをすることができる……

 つまり、平凡な日常がそのまま宇宙的・奇跡的な出来事である、というのが私たちが生きている現実なのですね。

 だから、平凡な日々を大切に生きなければならない――論理療法風に言い換えれば、生きることが望ましい――のだと思うのです。


 道徳を正式教科にするかどうか、成績の評価をするかどうかで、賛否両論、議論があるようですが、私は、それ以前にどういう内容を子どもたちに伝えるかが問題だと思っています。

 そしていうまでもなく私としては、いのちは宇宙的な奇跡でありだから絶対的に尊いということを子どもたちに伝えたい、それこそがすべての倫理・道徳のベースである、と考えているのです。




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子どもの顔が輝やく時

2007年03月06日 | いのちの大切さ


 去年11月、30数年来の友人であるお坊さんの仲介で天台宗の布教師の研修会で「つながりの心を育む」という講演をさせていただき、とても好評でした。

 「みなさん、とても熱心に聞いて下さったようです。/これでまた、コスモス・メッセージ=生きる意味を伝えて下さる方が増えるでしょう。」と書きました

 今日、その友人から、とてもうれしい便りが届きました。

 研修会に参加されたお坊さんの一人が、お伝えしたこと(コスモロジー教育のイントロダクション)をもとに、「いのちの大切さ」について地元中学校で講演をされたのだそうです。

 まさに、コスモス・メッセージを伝えて下さる方が増えたわけです。

 友人がコピーして送ってくれたお寺の雑誌(『彌勒』第42巻、鳥取市青谷町紙屋、彌勒寺発行)に、その報告が書かれており、子どもたちの感想も掲載されていました。






 子どもたちの反応は、感動的です。

 1つだけ引用させていただきます。


 今まで考えたことないけど、当たり前のことが大切だったんだなぁと思いました。気付いたことを将来につなげたいなぁと思いました。最後のまとめの言葉で「生きている それだけで素晴らしい!」っていうのがすごくかっこよかったです。今日学んだことを生かして生きていければいいなぁと思います。将来の夢への目標が広がったような気がしました。


 講演の最後について、著者はこう書いておられます。


 生徒達の顔は1時間前に見た顔とはあきらかに違って見えました。なにかを悟ったような、なにかが流れ始めたような、そんな顔に見えました。教室の中が明るく温かく感じました。私は生徒達の顔に「仏性のかけら」のようなものを見た気がしました。


 子どもたちの顔の輝きは、まさに仏性の輝きです。

 子どもたちの顔の輝きも、それを引き出された、このお坊さんの真心=仏性からのお説法もすばらしいと思いました。

 さらにすばらしいと思ったのは、生徒たちに自分の長所を書き出すというワークをしてもらって、最後に「皆さんが自分の長所を書いたこの紙はお寺に大切に納めておきます。これから先、自分に自信がなくなったり、自分の事がわからなくなったらお寺を訪ねてきて下さい。そして自分が今日書いた紙を見て、自分自身を見つめ直して欲しいと思います」と言われたということです。

 これは、地元のみなさんとお寺を本来のもっともいいかたちで結び直す、新しいかたちの「過去帳」の試みといっていいかもしれません。

 つながり=縁起の心=コスモス・メッセージを伝えていただいたことはもちろんですが、このアイデアにもとても感動しました。


 友人からの便りには、加えて1枚のCDが同封されていました。

 私が『サングラハ』の最新号で、「現象としての仏の生滅、去来と、本質としての不生不滅、不来不去を、百済の琴の音に譬えた個所ですが、譬えがとても美しくて印象に残ったので、ご紹介しようと思いました。/ところで、かつて正倉院御物の箜篌(くご)が復元―複製され、音も復元―演奏されたという新聞記事を読んだ記憶があります。その時も、どんな音がするのだろうと思いましたが、機会がなくてそのままです。いつか聞いてみたいものです。」と書いたのを読んで、その復元された箜篌のCDを送ってくれたのです。

 その古代と現代の融合した不思議な音を聞きながら、この記事を書いてます。





 それにしても、持つべきものは善き友です。




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産む性ということ:柳沢大臣の発言にふれて

2007年02月05日 | いのちの大切さ

 関係者のみなさん、特に女性のみなさんが、「岡野さん、どう思っているんだろう」と思っておられると思うので、これは書いておかなければならないと思いました。

 柳沢さんは、お辞めになったほうがいいと思います。

 確かに、女性は「産む性」であることはまちがいありません。私も、講義などでよくそう言って、最初、女性のみなさんから反発を買います。

 しかし、「いのちの意味の授業」のような内容をお伝えすると、ほとんどの女性のみなさんに納得していただけるようです。

 短くいえば、それは、「大自然・コスモスから、『つながってこそいのち』という本質をもったいのちを具体的につないでいくという決定的に重要な使命を与えられた性」ということであって、「産む機械」などということではありません。

 「産む機械」とは、本音・心の深層から出てきた、コスモスの理をわきまえない、根本的な大誤解の発言だと思われます。

 「言い間違えは無意識の表現である」ということは、深層心理学の常識です。心にないものが口に出てきたりはしません。

 そして、深層にある本音が、ちょっと表層・意識で反省したくらいでなくなるわけはないのです。

 本音にコスモスの理に反した考えを持つ人がリーダーになることは、コスモスの理に反しています。

 したがって、ほんとうに、つまり心の底から反省したいのなら、お辞めになって、徹底的に心の浄化に取り組んだほうがいい、と私には思えます。




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宇宙が宇宙を見始めた?

2006年07月09日 | いのちの大切さ

 大学の前期が終わりに近づき、以下のようなまとめの授業を行なっています。

 宇宙カレンダーの12月15日、蠕虫が創発し、神経組織と感覚が創発します。

 ここで、私たちの知るかぎりの宇宙に、初めて感覚するということが起こったのですね。

 それまでは、様々なものは存在していても、それが感覚されることはなかったのです。

 考えて見ると、とても不思議な気のすることですが。

 そして12月19日(オルドビス紀、5億1千万年前)に、脊椎動物=魚類が創発し、神経管と知覚が創発します。

 例えば「目」が誕生するのです。

 それまで、世界はあっても見るものがいなかったのに、ここで世界を見るものが生まれたのですね。

 そして、魚が見ている世界も魚自身も宇宙ですから、考えて見ると、宇宙の一部が宇宙の他の部分を見始めた、ということになります。

 縮めていうと、「宇宙が宇宙を見始めた」のです。

 これは、長い長い分化と統合による自己進化の結果です。

 もちろん私たち人間も今、「目」という進化の遺産を受け継いで、世界を見ています。

 ……このあたりで、「これは奇跡のような確率の偶然が重なってこうなったんだろうか? それともそこにはある種の必然があると解釈すべきなんだろうか?」と、学生たちに問いかけます。

 ブログ学生のみなさんはどう答えられますか?


 *過去の関連記事はこちらを参照。


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つながってこそいのち、つなげてこそいのち

2006年07月03日 | いのちの大切さ

 生命の創発、性の創発などのところで、

 「いのちは40億年、一ヵ所も途切れることなくつながって私に届いている。それが、いのちというものなんです」

 「だから、特別な事情がある場合は別にして、ここまでつながったいのちを私のところで途切れさせるのは、やっぱりおかしいんじゃないかな?」

 「つながってこそいのち、つなげてこそいのち、とぼくは思うんだけどねえ」


という話をします。

 そうすると、次のような感想を書いてくれる学生がいます。

                        *

  文学部4年 女

 毎回先生の講義を受けたときには、この感動を伝えたいと思って、母や兄弟、友人などに話そうとするのですが、うまく伝えられません。

 これは先生の話を受動的には理解できたつもりでも、能動的には理解しきれていないということなのかな、と思います。

 でも先生の話は、うわっつらの知識のお話ではなく、いつも実感を伴って伝わってくる話だなと思います。

 特に私が感動したのは、生命衝動のお話です。

 私は幼いころから、将来は結婚して子供をもうけたいと思っていました。

 いえ、もうけたい、というよりも、それがあたり前で、絶対にお母さんになっておばあちゃんになるんだ、と思っていました。

 しかし他の人の話や、世間のにニュースや何かを聞くと、「子供を産みたいと思わない」「子供を持つメリットがわからない」などという声も聞こえてきて、あれ、私は何で子供を欲しいと思ってたんだろう、子供を持つことに理由って必要なのかな?とふと考えてしまいました。

 でも先生のお話を聞いて、私が小さいころから持っていたこの気持ちは、生命のひとつとして普通のことだったんだ!と、はじめて納得できました。

 また、「すべてのものには関係があるから、関係ないと思うものでもほんとは関係がないのではなく関心がないだけ」とおっしゃっていたのがすごく印象に残っています。

 私はよく「関係ない」と言ってしまっていたけど、そう言う前に考えるようになりました。

 まだ私にはわからないことが多いけれど、後期を含めこれからもっともっと学んでいきたいです。

                        *

 こういう学生たちの声を聞いていると、子どもを産みやすい、育てやすい環境を整備することももちろん重要だが、こうした、いのちの意味、いのちをつなげることの意味を伝えることこそ、「少子化対策」にもっとも必要なことなのではないか、と思うのです。

 今の日本には、そういう「心・内面」のことまで伝えられるリーダーが必要なのではないでしょうか。

 ……といったところで、出てきそうなクレームに先にコメントしておきます。

 伝えることは、押し付けること・強制することとは違います。 




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生命の創発の「すごさ」

2006年07月01日 | いのちの大切さ

 このブログでもご紹介した宇宙137億年の歴史を365日に縮尺した「宇宙カレンダー」を使って、今も授業を行なっています。

 前期授業ももう数回で終わり、そろそろ人類の誕生、結論のあたりに差しかかっています。

 まとめ風にカレンダーを振り返りながら、改めて感じたことを学生たちに話しています。

 例えば、今から9月16日頃(40億年前)、〔今私たちの知るかぎりでは〕地球の海の中で生命が創発したわけですが、それは、それまでは生命の存在しなかった宇宙に生命が始めて誕生―創発したというです。

 なんという不思議でしょう。

 その生命はたった一匹の単細胞だったと推測されていますが、それから12月5日(10億年前)、多細胞生物が創発するまでなんと30億年間も生命は単細胞のまま、細胞分裂で自分の複製(コピー)を作るという単純な方法で、生命をつないできたのです。

 その単純さとその長さ――そしてそれはある種大変な努力だったと思われます――を想像すると、「すごい!」というほかありません。

 もっといい表現があるといいのですが、宇宙の歴史の話をしていると、もう「すごい」を連発するほかなくなります。

 しかし、この単純な「すごい!」を連発しながら語っていると、多くの学生たちに「すごい!」という共感が生まれてくるようです。



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有限な人生を生きる心構え:精進(しょうじん)

2006年06月08日 | いのちの大切さ



                   雪の残る八甲田山



 六波羅蜜の4番目は、精進(しょうじん)です。

 いちおう「努力」と訳すことができます。

 これは善の心の働きの中にもありました。

 つまり、普通に考えてもいい心の働きだということですが、覚るためにも、これは不可欠な項目だということを意味しています。

 私たちの生きている世界は、ダイナミックに動いており、変わっていくものでいつまでも同じであるということはありません。

 つまり、「無常」なのです。

 そして個人としての私たちに与えられた人生の時間も無常ですから、永遠に続くものではありません。

 好むと好まざるにかかわらず、それぞれに与えられた人生の時間は有限です。

 これはまさに「好むと好まざるにかかわらず」で、ほとんどの人は好まないのですが、人生は有限なのです。

 (私もとても好まないのですが。)

 ですから、言うまでもないことですが――しかし言わないとなかなか気がつかないことですが、人生ですることのできることも有限です。

 やりたいことをいつまでも何でもやり続けるということは、本当に残念なことですができないのです。

 ですから、無常ということ、人生は有限だということに気がつくと、やらなくてもいいことや、どちらでもいいことをしている暇はないということがわかります。


 ましてやってはいけないことなどするのは、人生の無駄遣いどころか悪用です。

 なるべくやりたいこと、やるべきことに限定して精いっぱいやっても、人生の時間はまるで足らないという気がします。

 ですから、前にも言いましたが、人生では最優先事項、優先事項、少し後に回してもいいことをしっかりと区分する必要があると思います。

 特に世界新記録、金メダルクラスのきわめて高い人間成長をしたいと思うのなら、他の余計なことをしている暇はないでしょう。

 目標に向かってまっしぐらにトレーニングを重ねていくほかありません。

 それが「精進」という言葉の意味だと思います。

 これは布施、持戒、忍辱と異なって、特定のことをするというよりは、有限な人生の時間の使い方の基本的な心構え、まっすぐまっしぐらにわき目もふらず、修行していくという姿勢のことだと思っていいでしょう。

 ちなみに日本の日常用語に「精進料理」という言葉がありますが、これはもともとお寺で修行に励む時の食べ物という意味です。

 修行の中心は、この次にお話しする「禅定(ぜんじょう)」で、心を静め、集中して空・一如の世界を直感することです。

 そのためにもちろん体の姿勢も坐禅という静かな姿勢を取ります。

 心も体も静かにするためには、食べ物も淡泊なものである必要があります。

 ですから、生き物を殺してはいけないということも含めて肉や魚は食べませんし、ネギやニラやニンニクといった体に元気がつきすぎるものも避けるのです。

 主として穀類と野菜で作られた、しかし非常に繊細なおいしい食べ物が工夫されました。

 それが一般的な料理になったのが「精進料理」です。

 グルメとして高級な精進料理は食べるけれども、人生における精進は心がけないというのではもうまるで本末転倒ですね。

 人生の楽しみのひとつとしてたまには高級な精進料理を食べることも悪くないと思いますが、やはり人間として与えられた潜在的な成長可能性を精いっぱいに引き出して、芽生え、伸び、花開き、実り、しっかりと熟してから、大地に戻る植物の営みのように、有限な人生の四季を無駄なく生きたいと、私は思うのですが、みなさんはいかがでしょう。




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孫娘とのクリスマス

2005年12月25日 | いのちの大切さ

 今日は一日、久しぶりにやってきた一歳半の孫娘と過ごしました。

 「ジージ」、「バーバ」はもちろん、片言がいろいろ話せるようになっていて驚くほどです。

 こちらの言うことはほとんど通じていて、「おいで」とか、「こっちだよ」、「あっちだよ」など指示がみんなわかります。

 特に可愛いのが、「ご本を読もうか」と言うと、自分の好きな絵本を持って当然のような顔をしてひざに坐ってくることです。

 彼女は、私が自分のジージであり、私にすごく愛されていることを信じ切っているようです。

 安心し切って、少しわがままも言います。

 しかし、もう「ダメ」もかなりわかるようになっていて、私が書斎で仕事をしていて、「ここはジージのお仕事するところだからね、ダメなんだよ」と言うと、入り口のあたりでもじもじするのですが、入ってきていたずらをしたりはしません。

 わがままもできるし、聞き分けもできるという、すんなりとした孫娘の育ちぶりに、すっかりうれしくなりました。

 もっとも感動したのは、食事の後で、娘が教えた「ごちそうさま」と手を合わせて頭を下げるご挨拶をちゃんとできたことでした。

 かみさんと二人で、心から「いい子だねえ」と絶賛しました。

 両親や祖父母とのこうした関係によって、自分の生きている世界への、エリクソンのいう「基本的信頼感」が育くまれていくのだな、と改めて思いました。

 何よりもうれしいクリスマス・プレゼントに恵まれた一日でした。

 孫が眠った後、記事を書きながら、私たち大人は、子どもたちみんなに、自分の生きている世界に対する不信感ではなく「基本的信頼感」をもてるような、あるべき社会を再建してプレゼントしなければならないのだ、と決心を新たにしています。


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事件と報道

2005年12月11日 | いのちの大切さ

 幼い女の子が殺害されるという事件が3件も連続で起こりました。

 本当に心が痛みます。

 たまたまふだんあまり見ないニュースとバラエティの番組を見ていたら、これらの事件が報道されていました。

 そして、よく聞く

 「今、日本の大事な何かが音を立てて崩れていっているような気がします」といったセリフと

 「なんとかしなければならないと思います」いうセリフが語られていました。

 こういうセリフを聞く度に、ある種のむなしさと怒りと非常な残念さを感じます。

 「崩れていこうとしているのは、何かといったあいまいなものではなく、社会全体としての倫理性の水準ではないか」、

 「なんとかといった漠然としたことではなく、しなければならないのはコスモロジーの再構築とそれによる社会全体の倫理性の再構築以外の何だというのだ」

と思ってしまうのです。

 もちろん、当面の対策、子どもの送迎、地域の力による監視体制、防犯カメラなどなど、できるだけの工夫は必要です。

 しかし、そうした外面の対策に加えて、何よりも長期的展望による内面の再構築に向けた本格的な対策がなされなければ、事態は日を追って悪化するほかない、と私には思えるのです。

 これは単なる抽象論、理想論にすぎないのでしょうか?

 みなさんは、どうお考えですか?


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なぜ、いのちは大切か?

2005年11月22日 | いのちの大切さ

 人間は、言葉をもった時から、「あれは何?」、「これはなぜ?」という問いを発するようになったと思われます。

 本来・生まれつき与えられた能力つまり「本能」だけで生きている生物が、物事やいのちそのものに疑問をもつということは考えられませんね。

 まあ、例えば、夏、地面を歩いているアリが何かにぶつかって、「これは何だろう? 食べられるかな?」といったふうに首をかしげ、触手をいろいろに動かしている、といったことはあります。

 でも、彼らが「オレは、何のためにこの暑い日盛りにこんなに苦労して働かなければならないんだ?」とか、まして「何のためにこんなつらい人生、いや蟻生を犠牲を払ってまで――これはつまらない駄洒落ですが――生きなければならないんだ? もう死んだほうがましだ」とか考えるとは思えません。

 「なぜ、いのちは大切か?」といった問いは、言葉を使って生きている人間だからこそ問う問いでしょう。

 そもそも「なぜ」も言葉ですし、「いのち」も「大切」も言葉です。

 言葉を使わなければ、問うことさえできません。

 進化の、言葉が創発した段階で、「なぜ、いのちは大切か?」という問いも創発したのです。

 ところで、「なぜ、いのちは大切か?」という問いと、「なぜ、人を殺してはいけないか?」という問いは、おなじ問題の表と裏だといっていいでしょう。

 「いのちは大切」だから、「人を殺してはいけない」ということになるのですね。

 では、「いのち」とは何か? 「大切」とはどういうことか? それが言えなければ、「人を殺してはいけない」ということも、はっきり言うことができません。

 「人を殺してはいけない」というのは、もっとも基本的な倫理であり、それをはっきりさせることができなければ、実はほかの倫理的なことがらもはっきり語ることはできません。

 そして、倫理を語ることができなければ、実は「こういうふうに生きるべきだ」、「こういうふうに生きるといいよ」と子どもを教育・指導することも、本質的にはできないはずです。

 現在そうしたことが曖昧なままでも教育が成り立っているように見えるのは、ある年齢までの大人の中では既成の倫理観が「当たり前」のこととして自明化されたままそこそこ共有されているからだと思われます。

 しかし、次第に若い世代ほど「当たり前」のこととして共有されなくなってきているようです。

 倫理観の共有がいちばん底のところで崩壊してきているのではないか? と私は考えています。

 やや哲学的に難しげな言葉でいうと、「自明性の喪失」・「自明性の崩壊」という状況です。

 教育に責任のある立場のみなさんには、ぜひ、この「自明性の崩壊」を自覚的に捉えて、根本的な対処の方法を考えていただきたいと願っています。

 現代の日本がそういう状況にあるからこそ、もう一度「いのちとは何か?」、とりわけ「人間のいのちとは何か?」が、共有できるかたちではっきりさせられる必要がある、と思うのです。

 そうしないかぎり、教育の崩壊状況――それが若年層における深刻な問題・事件を引き起こしている大きな原因だと思われますが――をとどめ、再建することは不可能ではないでしょうか。

 この公開授業の目指すところは、現代科学の成果をベースにしながら、宇宙=コスモスの複雑化の到達点としての「人間のいのちとは何か」を明らかにすることです。

 そういう試みを、「つながり-重なりコスモロジー」あるいは略して「コスモロジー」と呼んでいます。

 今回、あえてまたブログ・タイトルを変えさせていただき、そういった趣旨を直截簡明に示すものにしました。

 教育・思想に関わる方々、父母のみなさん、そして若者諸君に、メッセージが伝わることを心から祈っています。

*余談ですが、できるだけたくさんの人に伝えたいという意図で、今回、ブログのカテゴリーも変えてみました。
ブログ村の哲学ブログ部門では、お陰さまで早速1位になることができました。「つまらないプライド(マナ識)」と思いながらも、くすぐられて素直に喜んでいます。
 しかしもちろん主たる意図は、できるだけたくさんの人に伝わること、その結果たくさんの人が元気になってくれることです。
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人類――言葉と道具と火を使う動物

2005年11月20日 | いのちの大切さ

 12月30日、霊長類の脳で前頭葉の初期進化が始まります。

 12月31日、宇宙カレンダーの最後の日になって、ヒト科に属す生物がようやく創発します。

 第3紀が終わり第4紀(更新世、完新世)に、いわゆる「人類」が創発しました。

 もう少しくわしくいうと――このあたりは説がいろいろでまだ学会でほぼ合意された「標準的仮説」というのがないようですが――午後0時30分、プロコンスルとラマピテクスが誕生しています。これは類人猿と人類の祖先ではないかといわれてきました。

 現生人類――生物学上の分類でいうと「ホモ・サピエンス・サピエンス」というんだそうですが――の登場は、宇宙カレンダーの最後の最後、説によってかなり幅がありますが、1000万年から200万年くらい前です。

 250万年前としておくと、午後10時24分、もっとも古く1000万年前でも午後5時半ころです。

 こういうふうに見てくると、人類は宇宙の歴史の中で、そして生命の歴史の中でもごくごく新米だということがわかります。

 考えてみると、人類の歴史はほんとうに短いのですね。

 だから、近代人がやってきたような偉そうな顔はあまりしないほうがいいんじゃないか、と私は思っています。

 しかしそこまでに、エネルギーから素粒子、素粒子から原子、原子から分子、分子から高分子、そして高分子から遺伝子つまり物質から生命が創発し、細胞、細胞から器官、生命の歴史の中で生命からやがて哺乳類的脳と心、それから霊長類的な脳と心、人類の脳と心が創発し……と、ずうっと大変な積み重ねが、やっと人間という存在に達しています。

 しかも、原人以来の人類の積み重ねが現代文明まで到達しているわけです。

 そういうふうに、いわば積みあげ重なって複雑化してきた、つまり高度に発達してきたのが人類です。

 ですから、そういう意味でいえば、やっぱり人間はすごいと思います。

 進化学者のG・C・シンプソン(『進化の意味』草思社)は、こういっています。

 「人間が動物であると認識することは大切であるが、人間独自の本質はまさに他のどんな動物にもみられない特徴の中にあることを認識することはさらに重要である。人間の自然における地位と、その地位のもつもっとも重要な意味とは、その動物性によってではなく、人間性(ヒューマニティ)によって規定される。」

 最初の人間が、大脳新皮質、特に前頭葉を発達させて、シンボルや言葉を使うことができるようになったのが、31日の午後10時24分、夜もやや更けてきたころです。

 石器つまり道具を使うことが普及したのが10時54分ころ。

 原人が火を使ったのが11時2分(最近の再調査では、北京原人は私たち現生人類の直系のご先祖様ではないという説が有力になってきているようです)。

 かつて、「人間は、言葉と火と道具を使う動物だ」といわれてきました。

 使わないと、人間らしい生活ができないのです。

 そういう、火を使う、道具を使う、言葉を使うという人間の条件がやっとそろったのが11時45分です。

 (これも最近の研究で、チンパンジーも例えば枝を細工して木の実をたたき落とす棒=「道具」として使うことがあるとわかったので、この定義は少しあいまいになりましたが)。

 その場合、それらを使うか使わないかも、今の私たちには選択の余地はありません。

 火(エネルギー)を使わない、道具を使わない、言葉を使わないという自由選択の権利はないし、必要ないのですね。

 積み重ねられてきた進化の遺産は相続しない権利はなく、相続する義務しかないし、それは不自由なことではなく、だからこそ生きられるのです。

 どれもそうですが、特に言葉はそうです。

 言葉を中心とした「文化」なしには、人間は人間らしく生きること、それどころか生きることそのものができません。

 かつて「ブッシュマン」と呼ばれてきた「サン族」のようなきわめて原始的な生活をしている人でも、この件に関してはまったくおなじです。

 言葉や文化を担った存在であるという点についても、私たちは自由ではないのです。

 それこそ人間が人間であるための条件・「人間の条件」なのです。*

 言葉と文化によって、人間は環境と本能にしばられた〈動物〉から、さまざまな生き方の選択の幅・自由を獲得した〈人間〉になったと考えてまちがいないでしょう。

 これもまた、大きな進化の飛躍です。

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宇宙の労作としての脳と心

2005年11月19日 | いのちの大切さ

 少し戻りますが、12月25日頃、最初の哺乳類が登場しています。

 哺乳類では、私たちの脳でいうと脳幹の上にある大脳辺縁系が大きくなってきますが、この大脳辺縁系に感情の中枢があるといわれています。

 それから、12月29日になって最初の霊長類が生まれ、12月31日にやっとヒト科の生物が生まれるのです。

 ここで、ヒトがヒトになる(「ヒト化」といいます)決定的条件としての、直立二足歩行→前肢が自由になり手になる→手の働きで大脳が刺激され大きくなる→大脳の新皮質や前頭葉が発達する→言葉を使えるようになる→文化が生まれる、ということが始まったようです。

 普通人間的なものとされている思考と意識の中枢が前頭葉あたりにあることは、それを切除してしまうと物事を考えたり決定できなくなることからしても、脳科学的にはほぼまちがいないようです。

 心をすべて脳の働きに還元できるとは思えませんが、私たちが普通にわかっているこの意識・この心がこの脳の働きに支えられていることは確かでしょう。

 それは、例えばすばらしい名画が絵の具とキャンバスを素材にしているのといくらか似ているかもしれません。

 確かに素材にはなっていますが、名画が元の絵の具とキャンバスに還元できないことは明らかです。

 すばらしく美しい絵の描かれているキャンバスの裏を見て、「ただの板じゃないか」といったり、表を見ても、「こんなキャンバスと絵の具なんか、画材店に行けば、たったの○○円で買える」とか、ましてばらばらに切り裂いて「ただのモノの寄せ集めにすぎない」などといったとすると、それは美術がまるでわからないあまりにも無趣味であまり賢いとはいえない態度です。

 それに似て、「心は脳の働きにすぎない」というのはとても短絡的な考えだ、と私は思っています。

 心は確かに脳の機能を基礎にしているが、それを超えた性質を持っていることは確かです。

 話はもっと複雑ですが、少しわかりやすく単純化していえば、パソコンのソフトとハードの関係にも似ているかもしれません。

 ともかく、何より大事なことは、それはただのモノの寄せ集め・組み合わせというより、宇宙が137億年かけてより複雑に練りあげてきた、いくつもの創発的な出来事が積み重なった高度な達成、比喩的にいえば宇宙の作品・労作だということです。

 例えば私たちの脳は、無脊椎動物の神経組織から爬虫類の脳幹、哺乳類の辺縁系、霊長類の新皮質と前頭葉という進化の積み重ねを受け継いでいる、といわれています。

 無脊椎動物からだと7億年、霊長類からでも6~8000万年です。

 逆に遡れば、生命の40億年、地球の46億年、銀河系の100億年、そして宇宙の137億年のつながりとかさなりによって、今ここにいる私の体と心があるのです。

 宇宙の歴史をたどっていると、私がボキャブラリー貧困のせいか、その壮大さ、すばらしさを表現する言葉がうまく見つからず、「すごい!」を連発してしまうのですが、私にまでつながってきた宇宙の歴史はほんとうにすごいというほかありません。

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