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破壊と創造――種の絶滅について

2005年11月18日 | いのちの大切さ

 先に恐竜の絶滅の話をしましたが、同じ頃、恐竜と共に「変温動物」である多くの爬虫類も、寒さに耐えることができず絶滅しました。

 これは、恐竜や爬虫類のそれぞれの種から見ると、とても悲惨なことが起こったように見えます。

しかし、進化の歴史の中では、こういう大量絶滅はまれなことではなく、生命40億年の歴史では少なくとも13回、最近6億年でも6回も起こっているそうです。

 そして不思議なことですが、「大量絶滅」は生命の「全滅」ではなく、大量絶滅の後にかえって新しい種の進化が起こっているのだそうです。

 それまでの種が絶滅することで、その種が占めていたなわばり(「生態学的ニッチ」と呼ばれます)が空き地になり、そこに生き残った種が新しい進化を遂げながら入り込んでいくということ(「適応放散」)が繰り返し起こるのです。

 つまり、個々の種から見れば悲劇というほかない出来事が、生命全体の進化を促進するらしいのです。

 いったい、これはどう考えればいいのでしょう?

 宇宙が一つであり、一貫して自己組織化・複雑化という方向に進んでいるとすれば、一見破壊に見えることが、次の創発の準備になっているのではないか、と考えることもできます。

 もっと古い例でいえば、超新星の爆発、つまり星の死が、やがてより複雑な原子からなる新しい星の誕生を準備したのと同じように、古い生命の種の死が、新しい生命の種の創発を準備したのかもしれません。

 もっと古い例をあげると、そもそも水素原子が核融合を起こしてヘリウムになるということ自体、個々の水素原子から考えると圧力で潰れるのですから破壊です。

 しかし、個々の原子が壊れるからこそ、新しい元素が創発するのですね。

 もし、破壊が次の創発の準備であり、死が次の誕生の準備だとすれば、根源的には宇宙には不条理はない、ということになります。

 ともかく、恐竜や多くの爬虫類の絶滅がなければ、次の時代の哺乳類の繁栄はなく、哺乳類の繁栄と進化がなければ、霊長類の誕生もなく、したがって人類の誕生もありえません。

 膨大な数の種の誕生と死という大きな流れの中に、人類も、私たちの先祖も、そして私も置かれています。

 生命4〇億年の歴史、宇宙137億年の歴史は、こういうふうに今ここにいる私たちにまちがいなくつながっているようです。

 そういうことに気づいた時、私たちの心には大きな感動と、そして自分を超えた大きな何ものかへの畏怖・おそれの念が湧いてきます。

 最後に、前に引用した本の言葉をもう1カ所引用しましょう(『人類の長い旅』147~8頁)。

 「あなたのからだのなかの生命を、ほんとうのはじまりまでたどりたいのなら、あなたは、先祖の家系図をさらにさかのぼって、何万年もむかしの原始的なホモ・サピエンス・サピエンス、もっとむかしのホミニド、そのむかしの霊長類、哺乳類、爬虫類、両生類、魚類、ヒモムシ、最初の真核細胞、そして最後には、海のなかで自分の複製をはじめてつくった細胞まで、たどりつかねばなりません。

 はじめての生細胞からあなたまでの生命の流れは、とぎれることなくつづいています。

 あなたのからだのなかの生命は、35億年のあいだ、とどまることなくつづいてきたのです。

 あなたは生命の木のいちばんあたらしいえだのさきにいて、地球上の他のすべてのいきもののえだと、その根もとではつながっています。わたしたちのいのちのはすべてもとをたどれば、何十億年もむかしの原始の海のなかの、最初の生細胞からはじまったのですが、それをさらにさかのぼれば、最初の生細胞をつくったアミノ酸と核酸塩基、さらに原始の大気のなかでくっつきあった分子、さらには、よりあつまって地球をつくった原子、そのまえにはこの原子のもととなった超新星、そのまえには、初期の星をつくった水素原子とヘリウム原子、そして空間の微粒子、そして最後には、すべてのみちすじのはじめとなったビッグ・バンにいきつきます。

 わたしたちのからだをつくっているすべての材料は、150億年むかし、わたしたちの宇宙がはじまったまさにその時にうまれたものなのです。

 自分のてをよくみてごらんなさい。そしてそのなかの原子がいままでにとどってきた旅について考えてみてください。

 そして、これからその原子たちがたどらなければならない旅についても、考えてみてください。」

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*写真はNGC2403付近の超新星、NASA提供
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恐竜の絶滅――エレガント化するコスモス?

2005年11月16日 | いのちの大切さ

 12月26日(ジュラ紀)、それまで昆虫が飛んでいただけの空に鳥が飛びはじめます。鳥類の創発です。

 この頃の鳥は、私たちの目から見るとかなりグロテスクな姿をしていたようですが、可愛らしい小鳥たちもこういうご先祖さまから進化したのだと思うと、とても不思議な気がします。

 ここで注目すべきことは、それまで1億年以上、圧倒的な繁栄を誇っていた恐竜が、12月28日から30日(白亜紀末)にかけて絶滅したということです。

 そして、ちょうと恐竜が絶滅しはじめた頃、地上には花が咲き始めるのです。

 いろいろな推測がなされてきましたが、最近の有力な説では、大型の隕石か彗星が地球に衝突し、巻き上がった大量のチリやガスで成層圏が覆われ、太陽の光が遮られて、地表が急激に冷えたことが最大の原因のようです。

 植物は育たなくなり、その結果大量の植物を必要とした草食性の恐竜が絶滅し、それを食べる肉食性の恐竜も絶滅したのではないかと考えられています。

 地上に花が咲きはじめたことも、恐竜の絶滅に影響を与えているという説もあるそうです。

 それは、スギなどのような裸子植物は風で花粉を撒き散らすことで受粉し、子孫を残すため、なるべく高く伸びたほうが有利なのです。

 ところが、そのために高く伸びたら、それに合わせて恐竜の首も伸びて、ばりばり食べられてしまうようになったらしいのです。

 そこで、植物は被子植物になって、昆虫を花と蜜で誘って受粉を手伝ってもらうという戦略を編み出したようです。

 そうすれば、背丈が低くてもいいので、いったん首が伸びた恐竜にはとても食べにくくなった、ということのようです。

 花が咲くようになったことが、恐竜の食糧難をもたらした、という面があるらしいのです。

 不思議で面白いことですね。

 このあたりのことを学びながら、私は、鳥や花がいない地球のままだったら、どんなにかつまらないのではないか、と思いました。

 そして、コスモスの自己組織化・自己複雑化は、もしかするとより美しくエレガントなものを生み出すという方向に向っているのではないか、という気がしてきたのです。

 鳥や花の進化も、どうもそうなっているような気がするのですが、これは科学者の共通見解ではなく、あくまでも私の感じです。

 しかしそれにしても、「ゆっくり、じっくりと時間をかけながら、自己をますますエレガントに装っていくコスモス」とか「ゆったりと花開いていくコスモス」というイメージは、実に素敵だと思われませんか?

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なぜ人を殺してはいけないか

2005年11月13日 | いのちの大切さ

 まだ容疑の段階だが静岡の母親毒殺未遂事件、そして11日の町田の女子高校生殺害事件と、若い世代による事件が続いていて、とても悲しくとても残念である。

 昨日、横浜でのカウンセリング研究会の終了後、ご一緒に食事をしていた受講者の中に、おなじ町田の高校に行っているお子さんをお持ちの方がいて、「子供がかなり動揺していますので」と早めに帰っていかれた。

 遠慮しておられたのだろう、食事の時には話題に出されなかった。

 しかし、「なぜ生きなければならないのか」、「なぜ死んではいけないのか」、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対する納得のできる答えができなければ、根本的な意味での教育はできないのではないでしょうか、という私の話に深くうなづいておられたのは、そのためもあったのだろうと思う。

 そして、「次回、まさにそのテーマでお話しします」と言うと、みなさんが「すごく期待しています」と答えて下さった。

 こうした事件が起こるたびに、教育関係者の方が言われるのは、「2度とこういうことの起らないように、いのちの大切さの教育をしなければならない」ということである。

 そしてジャーナリズムでは、そうしたことをテーマにした報道企画がいろいろ組まれたりする。

 しかしそういうことが問題ないし話題になってから、もう何年が経つのだろうか。

 私はいくつかの大学で年間6~800名の学生を教えているが、毎年行なっているアンケート調査の1項目である「人生には、意味があると思いますか。あるとしたら、どんな意味だと思っていますか?」という問いに、はっきりと「ある。こういう意味だ」と答えることのできる学生は30%を越したことがない。

 それどころか、ほとんどの場合、10%程度にすぎない。

 あえて大学名も公表しておくが、北は青森公立大学(集中講義)、南は四国学院(集中講義)、そして法政大学の文学部と社会学部(通常授業)、武蔵野大学の人間関係学部(通常授業)と、地域もいわゆる大学のランクも様々であるから、統計データとしては、無作為に採ったサンプルに近いと思う。

 こうした調査と私の接しえたかぎりでの情報からすると、どうも日本の教育界――学校教育だけでなく家庭教育でもマスコミの教育的機能の面でも――全体としては、「いのちの大切さ」=「生きる意味・人生の意味」、そしてそこから必然的に導き出される「なぜ生きなければならないのか」、「なぜ死んではいけないのか」、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対する納得のできる答えは提供されていないのではないだろうか。

 「提供」といったのは、それは大人が次の世代・子どもに提供する責任のあることだと思うからである。*

 それどころか、学生(かつての学生つまり社会人も含め)への聞き取りで、典型的に報告されるのは、大人からは答えはもらえなかったということである。

 小さい時には、「なぜ生きているか? 死んだらどうなるのか?」ということを大人(親や先生)に聞いたら、「そんなこと考えてないで、遊んできなさい」と言われたという。

 そして、中高生くらいでおなじ問いをしたら、「そんな暗いこと考えてないで、将来のために勉強しろ」と言われたという。

 さらに大学生になって大学教師に聞いたら、「そんなことは、自分で考えなさい」と言われたとか、もっとひどいのだと授業で、「生きることには意味がない」とか「意味なんてものは人間が勝手に作り出したことにすぎない」という話を聞かされたという。

 「いのちの大切さの教育」など、どこでも行なわれていなかったのではないだろうか。

 あえて私に言わせてもらうと、これは大人の責任回避である。まったく無責任というほかない。

 「いや、いのちは大切だ、命を大切にしなさい、という話はしてきた」と言われる向きもあるかもしれない。

 しかしただ「大切だ」と言えば、子どもが「そうか、大切なんだ」と納得するのなら話は簡単なのだが、そうではないところに根本的な問題がある。

 「なぜ」という問いに、「~だから」という納得のできる答えをする責任を、大人は問われていながら、それに答える努力を十分できていないのではないだろうか。

 (大人だって教わっていない、というやむを得ない事情もある。)

 ここはブログという媒体なので、自己宣伝だと思われることを恐れずあえて言いたい。

 毎年、私の授業に1年間ついてきてくれた(もちろん残念ながら途中で脱落する学生もいる)学生の例年の平均90%が、「人生には、意味があると思いますか?」という項目に、0から10までのスケールで5以上の自己採点をするのである。

 それどころか、平均25%が「10」と書く。

 そして、コメントの欄に「こういうことをもっとたくさんの人に伝えたい」ないし「たくさんの人に伝えてください。先生、頑張ってください」と書く学生がたくさんいる。

 もっともうれしかったコメントの一つには、「私はこういうことを教わりたかったんだと思う」というのがあった。

 「そう、私はそういうことを教えたかったんだよ」と答えたものである。

 そこで、いろいろ本を書いたり、頼まれた講演はほとんど断らず出かけ、自分の研究所でも講座やワークショップを頻繁に開催し、そしてもっと広く伝えたくて、とうとうブログも始めたというわけである。

 残念ながら、「なぜ」という深い問いに答えるのに、3分というわけにいかないので、長々と書き続けている。

 しかし、要点は2つ、

 「なぜなら、きみそしてすべての人のいのちは、ちゃんと見さえすれば、事実としてとてもすばらしいものなんだから、落ち込んだり、死んだり、殺したりする必要はないんだよ」ということ、

 「なぜなら、きみそしてすべての人のいのちは、宇宙の137億年の進化の営みが積み重ねられたすごいものなんだから、それこそ宇宙的・絶対的な意味があるんだよ」というメッセージである。

 このメッセージは、単に情緒的なものであるだけでなく、誰でも確認-合意できる事実と現代科学と臨床心理学と論理の裏づけがしっかりある、と私は思っている。

 だから、実際、多くの学生たちが納得してくれるのだと思う。

 だが、今のところ、なぜか――分析すればわかる理由はあるのだがここでは省略する――日本の教育界にも、父母たちにも、マスコミにもまだ十分理解されていない。

 (私が執筆・監修したサブ・テキスト2冊が東京都内の4つの私立高校で使われている、大学の臨床心理学の授業でコスモス・セラピーを実施して効果を挙げている方が2人いる、といううれしい例外はあるが。)

 そして、だから、多くの子どもたち・若者たちのところに届いていない。

 そして、かなり多数の子どもたち・若者たちが、依然として、落ち込んだり、すねたり、つっぱったり、引きこもったり、病んだり、非行・犯罪に走ったりしている。

 それが、歯がゆく、口惜しく、悲しく、残念でならない。

 私は、自分のやっていることが唯一だとも絶対だとも思っていないし、万能の方法をつかんでいるとも思っていないが、コスモロジー教育-コスモス・セラピーは、そうした問題に対して、事実、相当に有効だということは実証してきたつもりである。

 だから、社会的提案を続けてきたし、これからも粘り強く続けていく覚悟である。

 もちろん、批判や修正-増補の提案はいくらでもお受けしたい。

 もし万一、完璧によりよいものがあれば、私の提案は取り下げてもいい。

 心ある、つまり本当の意味で後の世代への責任を取るつもりのある大人のみなさんに、ぜひ、知るだけでも知ってほしいと思うのである。

 そして、子ども・若者のみなさんには、親や教師やマスコミが教えてくれなくても、その鋭い直観力と判断力を働かせて、まず自分の力で見つけ、そして本当に自分の存在の意味を明らかにしてくれるメッセージなのかどうかを判断してほしいと願っている。

 悲しさや残念さに共感してくださり、提案に賛同して下さる方は、この文章そしてこのブログ全体の文章を自由に使って――コピー、引用、リンク、論評などなど――口コミ、ブログ・コミに、ぜひ参加していただきたいと思う。

 最後に、あまりにも若くして亡くなった古山優亜さんとご家族の方に心からの哀悼の意を表したい。

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喜びや悲しみのある世界の創発――哺乳類への進化

2005年11月10日 | いのちの大切さ
 私たち哺乳類のご先祖さまである哺乳類型爬虫類=単弓類は、12月23日(2億9千万年前)頃、古生代ペルム紀に大繁栄します。

(最近、哺乳類型爬虫類は、「爬虫類」と名がつくものの、実は爬虫類とは別のグループではないかという考えが強くなりつるあるようですが。)

 しかし、12月24日(2億4千5百万年前)頃、古生代末に起った生物の大量絶滅によって、哺乳類型爬虫類もほとんど死滅してしまいました。

 古生代末の大量絶滅は、中生代末の恐竜やアンモナイトの絶滅の規模をはるかに超えた大変なものだったようです。

 ここで、もし私たちの直系のご先祖さまである哺乳類型爬虫類が一匹残らずダウンしてしまっていたなら、今の私たちはいなかったのですが、ご先祖さまたちの一部が、おそらく頑張りと幸運とでかろうじて生き延びてくれたのです。

 これは、ほとんど奇跡といってもいいくらいのことです。

 続いて、12月25日、中生代三畳紀に入り、他の爬虫類のなかまが恐竜へと進化します。

 そして次の12月26日、ジュラ紀には、恐竜には巨大な体をもつものも現われ、それから長い間――1億年あまりも?――地球上を我がもの顔に歩いていたようです。

 もちろん、それは草食性恐竜を支えるだけの植物があり、その草食性恐竜を食べる肉食性恐竜も生きられたということです。

 さらにいえば、それだけの植物を生育させるような暖かい気候条件があったということでもあります。

 そうした恐竜とほぼ並行して、辛うじて絶滅を免れた哺乳類型爬虫類から哺乳類が進化してきます。

 しかし、先祖である哺乳類型端虫類が君臨していた生態系の頂点の座を恐竜に奪われ、哺乳類は、彼らの繁栄の陰でいわばひっそりと生きていかざるをえなくなりました。

 最初の哺乳類は、ハツカネズミくらいの小さな動物だっただろうといわれています。

 爬虫類や恐竜は、いわゆる「変温動物」で、周りの気温が下がると、体温も下がり、活動できなくなります。

 それに対して、哺乳類は、「恒温動物」で、自力で体温を保つことができますから、温度が下がっても活動できます。

 そういうわけで、小さな哺乳類は、温度が下がり恐竜の眠っている夜に活動することができたので、何とか生き延びることができたようです。

 自分を変え、新しいライフスタイルを考案し、億年単位にわたって、ひそやかに、ささやかに、しかし粘り強くいのちを伝え続けている小さな哺乳類のご先祖さまのことを想像すると、私はちょっと胸がいっぱいになります。

 (ただし最近、「羽毛恐竜」の発見が相次ぎ、小型肉食恐竜と鳥類との類縁関係が強く示唆され、少なくとも一部の恐竜は恒温だったのではないかという「恐竜恒温動物説」も有力になってきているそうです。)

 さて、ここでも確認しておきたいことは、最初の哺乳類は、私たちの直系のご先祖さまだということです。

 そして、哺乳類で初めて、はっきりとした情動・感情のセンターである大脳の辺縁系が出来ています。

 喜びや悲しみといった感情は、私たち人間の発明したものでもなければ、独占物でもなく、哺乳類のご先祖さまから受け継いだものであり、他の哺乳類と共有しているんですね。

 だから、私たちは、体温・血の冷たいヘビやトカゲではなく、温かいイヌやネコと気持ちが通じやすいという気がするのかもしれません。

 例えば愛犬を飼っておられる方、彼らとはもうまちがいなく愛情のコミュニケーションが成り立っているとお感じになりませんか?

 ともかく、哺乳類-大脳辺縁系の創発と共に、宇宙には喜びや悲しみや愛情といった感情が創発したのです。

 こうして宇宙は、本能と衝動だけでなく、豊かな感情のある世界へと、まさにより豊かに美しく進化してきたのだといっていいでしょう。

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生命力の源泉――爬虫類のご先祖さまからの遺産

2005年11月09日 | いのちの大切さ

 最初のころ陸に上がった植物は、それほど大きくないシダ類などだったようですが、やがて10メートル以上もある大木になって、海辺に近いところから深い森が繁るようになりました。

 そのシダ類の大木が豊かな太陽エネルギーを体の中に蓄え、やがて倒れ土に埋もれて、長い年月を経て石炭になったのです。

 それが、宇宙カレンダーの12月22日、石炭紀です。

 その翌23日、両生類の中から最初の爬虫類が分かれて登場します。

 石炭紀から数千万年、森はしだいに海辺からさらに陸地深くにと広がっていったようです。

 実にゆっくりと悠久の時間をかけて――気候変動によるジグザグは当然あったのですが――しかし確実に、大地全体が緑で覆われていく様子を想像してみてください。

 大地を覆う森はその中や土中に多くの昆虫やミミズのような生き物を育んでいきます。

 それらは、肉食の動物にとってはもちろん食糧です。

 当然、遠くても食べに行きたいですよね。

 しかし、両生類は、水辺からあまり離れることができませんでした。

 それはなぜでしょうか?

 春の池や小川のことを思い出してください。

 ゼラチン状のカエルの卵を見たことがありませんか?

 そうです、ゼラチン状の卵によって子孫を残していくためには、水を離れるわけにいかないんですね。

 水のない陸地では、卵が乾燥して死んでしまいますからね。

 でも、陸地の奥深いところは食糧になる生物の宝庫になっています。

 水辺を離れて、奥地に進出するにはどうしたらいいでしょう?

 みなさんが両生類のフロンティアだったとしたら、どういう戦略を考えますか?

 そのとおり! 卵に殻をつけるんです。

 爬虫類は、殻があり陸地の乾燥に耐えることのできる卵を発明することによって、陸の奥深い場所まで自分たちの生息圏-なわばりにすることができたのです。

 爬虫類はまた、カエルの子、オタマジャクシのように最初はエラで呼吸し、後から肺で呼吸するようになるのではなく、生まれた時から肺で呼吸します。

 したがって、最初から陸で暮らし、陸で卵を産めるわけです。

 完全に水辺を離れることのできた爬虫類は、まだ競争相手の少ない陸で、いわば「陸の王者」になっていきます。

 ところで、もちろんこの爬虫類も私たちの先祖です――「トカゲのなかまが先祖だなんて」とぞっとする人もいるかもしれませんが。

 私たちの脳の中には、ご先祖さまである爬虫類の遺産が残っているようです。

 本能と衝動のセンターである「脳幹」という部分が、爬虫類の脳とほぼ同じパターンになっているのだそうです。

 「本能と衝動」というと、洗練された文明人のつもりの方はちょっと嫌な気がするかもしれません。

 しかし、「食べたい」、「セックスしたい」、「戦おう」、「逃げよう」といった心の働きは、生きるエネルギーの源泉です。

 人間においては、いうまでもなく本能や衝動は適切にコントロールされる必要がありますが、それらがあるからこそ生き延びることができるのですし、それらがあってこそ活き活きと生きることができるのです。

 本能と衝動は、なくてはならない生命力の源泉です。

 私たちは、そうした生命力の源泉を、爬虫類のご先祖さまからの大切な遺産として受け継いでいる、といっていいようです。


 ……と、ここまで考えてきて、もう1つ気づきました。

 今では当たり前のように思っていますが、陸の奥深いところはもともとは生物の棲めるところではなかったのです。

 そこをまず植物が開拓し、続いて昆虫が開拓し、さらに爬虫類が開拓して、豊かな生命圏に変えていったわけです。

 それに続く哺乳類-霊長類-人類は、それらのご先祖さまの親戚や直系のご先祖さまの開拓地という遺産をもらって暮らしている、ともいえるのではないでしょうか。

 内面的にも外面的にも、爬虫類というご先祖さまから受け継いだ遺産は大きいのですね。


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姿・形と香りのある世界の創発――蠕虫から魚類へ

2005年11月06日 | いのちの大切さ



*図は、ピカイアとナメクジウオ


 続いて、多細胞生物の創発から10日つまり約4億年ほどもたった、宇宙カレンダーの12月15日、ようやく最初のヒモムシ・蠕虫(ぜんちゅう)といった、単純な神経組織を持っていて、したがってある種の感覚があると思われる生物が誕生します。

 大まかにいえば、ミミズやゴカイのような虫だと思っていただけばいいでしょう。

 この後、3日間つまり1億年以上、海の中では無脊椎動物が繁栄します。

 12月17日頃には、最初の海洋プランクトンが創発し、三葉虫が栄えています。

 そして12月18日(5億1千万年前)、オルドビス紀に、最初の脊椎動物である魚類が誕生するのです。

 ここで、神経管があり、したがって知覚することのできる生命が創発したわけです。

 脊椎動物の先祖といわれるピカイアに似た現生のナメクジウオには半透明の体に光を感じる細胞が存在していますが、目はありません。

 ところがヤツメウナギくらいの魚になると、完全なかたちの目が突然のように発生するのだそうです。

 目が見える、つまり世界を見ることができる生命が創発したのは、約5億年くらい前、12月18日頃のことです。

 目が見える生命・魚もまたコスモスの一部です。

 魚において、コスモスは自らの姿・形を初めて見ることができるようになった、といえるのかもしれません(地球以外のところですでにそういう生命が創発していれば別ですが)。

 鼻-匂いをかぐ能力もこの頃創発したようです。

 それまではあっても知覚されなかった世界の匂い・香りが、魚の鼻によって知覚されるようになったということです。

 ここで、世界は姿・形があり香りがある世界になった、といってもいいのではないでしょうか。

 知覚されないかぎり、それはあってもないのと同然ですからね。

 先にお話ししたように、生命の家系図をたどっていくと、この最初の多細胞生物もヒモムシも私たちのご先祖さまですし、最初の脊椎動物である太古の魚類は直系のご先祖さまです。

 ということは、現在の魚類はいわばずっと昔に分家した――進化には本家も分家もありませんが――私たちの親戚だということになりますね。

 心の中でそうしたつながりをイメージして、改めて感じてみましょう。

 最初のバクテリアから多細胞生物へ、そして魚類、次の両生類へと、いのちの流れは、何千万年、何億年、何十億年と、ほんのわずかも途切れることなく、つながっています。

 そして、蠕虫のあたりで感覚、魚類で知覚と、ゆっくりとおぼろげながら〈心〉のようなものが生まれはじめていることに注意してください

 私たち人間は、見えることやその他の知覚能力を、こうした大変な進化の積み重ねによってプレゼントされているのです。

 そういうことを知ってみると、「見ることができる」のや「匂いをかぐことができる」のが、「誰だってできる、能力ともいえないほどの当たり前のこと」ではないという気がしてきませんか?

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細胞たちの協力体制の創発=多細胞生物

2005年11月05日 | いのちの大切さ

 本格的な酸素大気ができ、オゾン層が形成されて紫外線がかなり吸収され、海面近くでも生きられるようになり、細胞が複雑化していく中で、宇宙カレンダーの12月5日(10億年前)、複雑化がさらに1段階ジャンプして、多細胞生物が創発します。

 多細胞生物とは、いろいろな細胞が役割分担をしながらつながりあっている生物です。

 私たち人間もいうまでもなく多細胞生物で、私たちの体には、最近の説では、何と37兆2千億個もの細胞があって、協力しあっています。

 例えば骨細胞、内臓の細胞、脳細胞などなど、実にさまざまな細胞が役割分担をしながらつながっているわけです。

 たまには協力体制がうまくいかなくて病気になることもありますが、ふつうは実にみごとに一糸乱れず協力しあっているのです。

 これもまた、驚くべきことですね。

 ここでも重要なのは、役割分担をしながらつながりあっていること――分化と統合――です。

 とても興味深いことに、それが自然に一貫して見られる法則のようです。

 ここでもし、細胞が「みんなお互いに平等じゃないか」と主張しあって、役割分担=分業を拒否したらどうでしょう?

 例えば脳細胞以外の細胞すべてが、脳細胞に向って、「なんでおまえだけがカッコイイ脳細胞をやるんだ。おれも脳細胞をやりたい」といったら、どうなるでしょう。

 全部の細胞が脳細胞になったら、人間は生きていけませんね。

 ちょっと尾籠な話をすると、例えば肛門の細胞が「おれ、こんな汚い役、やりたくない。いちばんカッコイイ脳細胞をやらせてくれ」といって、役割を放棄したら、全体としての体は排泄できなくて死んでしまいます。

 そうすると、もちろん結果として肛門の細胞自身も死んでしまいます。

 セミナーの参加者の方が教えてくれたんですが、これとそっくりのネタの落語があるんだそうですね。

 ただ、その落語では、肛門細胞が目の細胞に向って、「なんでおまえだけ美人を見て楽しむんだ」とか、舌の味覚細胞に向って、「なんでおまえだけうまいものを味わっていい思いをするんだ」とかいうらしいのですが。

 それはともかく、全体としての体が生きるためには、すべての細胞や細胞の集まりである器官が合意をして、つながりあって役割分担をすることが不可欠です。

 それが命というもので、そういう場合、それぞれの細胞や器官にとって、損か得かという話はありません。

 たぶん、人間の集まりにもそれに似たことがあるのではないでしょうか。

 つながりあって役割分担をし、それぞれがそれを「ああ、これは私の役割だ」としっかり受け止めることによって、集団が生きるのです。

 みなさんは、すでに仕事に就いていたり、やがて就いたりするでしょうが、その場合、例えば日本の中で、世界の中で、そして進化史の中で、宇宙史の中で、何が自分の役割なのか、全体のつながりの中で自分がやるべき役割をしっかりと見極めていただけるといいと思います。

 特にこれから職業を選ぶ若い世代の方は、収入がいいかどうか、社会的評価が高いか低いかといったことを優先するより、何が宇宙から与えられた自分の役割なのかを見極めて仕事を選ぶといいと思います。

 そういう宇宙的役割を担うものであれば、仕事は宇宙的にすばらしいものになるはずです。

 逆にそういう選び方をしないと、いつかどこかで仕事に空しさを感じることになるのではないでしょうか。

 やや横道のようですが、多細胞生物が、いろいろな細胞の集まり、すなわち役割分担とつながりによってできているということは、より複雑な多細胞生物であり社会性生物である私たちにそういう人生の教訓も示してくれるのではないかと思うのです。

*念のためにいっておくと、私のいいたいことは、戦前の右寄りの思想家の「国家は全体としての生命体であり部分としての国民は細胞のようなものだ」という話と一見似ていると思われるかもしれませんが、根本的に違っています。詳しくは、拙著『自我と無我――〈個と集団〉の成熟した関係』(PHP新書)を参照してください。

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性――このすばらしいものの創発

2005年11月02日 | いのちの大切さ
 
 生命は誕生してから何と25億年も、ひたすら細胞分裂をすることで繁殖をしていたようです。

 個体は、いわば自分の単純なコピーを作って、いのちを増やし、引き継いでいたわけです。

 そういう単細胞生物には性別はありませんから、そういう生殖の仕方を「無性生殖」というのはご存知のとおりです。

 つまり、ただいのちをつなげていくだけなら、性は必要なかったらしいのです。

 ところが今では、多くの生物は、同じ種の生命でありながらオスかメスかに分かれています(分化)。

 といっても、分離、分裂したわけではなく、つながり結びあうことによって(統合)、生命を伝えていくわけです。

 「有性生殖」といわれるかたちですね。

 ここでも「分化と統合」という宇宙進化の基本パターンが現われています。

 生命がオスとメスに分かれたのは、一説では15億年ほど前だと推測されています。宇宙カレンダーでは11月21日、そろそろ暮も近づいたという季節です。

 (これにはいろいろ説があるようですが。)

 ところで、私たちヒトという動物の場合も、それぞれの個体は基本的には男性か女性かどちらかの性であるわけです。

 それはつまり、私たちが男か女かとして生きているということも、自分で決めたわけではなく、宇宙そして生命の進化史が決めたことから始まっているということではないでしょうか。

 おそらく考えたこともないかもしれませんが、父と母がいて子ども=私が生まれるということも、基本的なかたちとしては今から15億年も前にすでに決まっていたわけです。

 これもまた、考えてみると驚くべきことです。

 毎回えらそうにいっていますが、私も学ぶまでは考えたこともなかったことばかりなんですよ。

 学べば学ぶほど、世界・コスモスは驚きに満ちています。

 ところで、たぶん読者も実感しておられるでしょうが、性があるということはとても魅力的なことであると同時に、いろいろな悩みやトラブルの元でもあります。

 異性がいない世界を想像すると、実につまらない味気ない世界だろうと思われます。

 私は、この世に女性が存在しなかったら、ほとんど生きている意味がなくなるのではないかと思うくらい、女性がこの世に存在していてくれるということはすばらしいことだと感じています。

 幸いにして、女性の方にうかがっても、たいていの場合は、男性のいない世界なんてつまらないといってくださいます。

 お互いが異なった性であるということは、とてもいいことですね。

 でも、時には、異性なんかいなかったら、性というものがなかったら、どんなに人生が単純ですっきりとしているだろうという気がすることもありませんか。

 どうして宇宙は、こういう素敵でもあり面倒でもあり、時にはとても醜く汚らしくもなるような性というものを創ったのでしょう。

 そのいちばん出発点・原点のところ、つまり「性の創発」の意味を考えてみたいと思います。

 (これは出発点での意味であって、すべての意味ではありませんが。)

 ある生物学者がこういっています(ショップ『失われた化石記録』講談社現代新書)。

 「あらゆる進化上の革新のなかで、二つの事柄がとりわけ重要なものとしてきわだっている。

 その一つは、酸素を発生するシアノバクテリアの光合成……。

 二つめは、真核生物の性であり、高等生物における遺伝的変異の主たる供給源で、かつ著しい多様性と急速な進化の原因となった革新であった。」

 すでにお話しした光合成に続く、進化史上のもう一つの大事件が、性の始まりだというのです。

 どういう意味で大事件なのでしょう。

 生命の中にオスとメスの違いが生まれた決定的な意味は、無性生殖のように細胞分裂で遺伝子が単純にコピーされるだけではなく、オスとメスの遺伝子が半分ずつ組み合わされるようになったということらしいのです。

 単純なコピーでは、コピーのズレやまちがいを除いて、新しいものが生まれてくる可能性はごくわずかです。

 しかも生命情報としての遺伝子は、新しければいいというものではなく、環境に適応できるものでなければなりません。

 単純なコピーのまちがいでできた新しい遺伝子のほとんどは、環境に不適応なものだったと推測されます。

 したがって、生命の新しくてしかも適応的なかたちができる可能性はほとんどありません。

 ですから、実際、初期の生命の進化は非常にゆっくりとしたものだったようです。

 ところが、性というものが創発――新しく創造的に発生――して、オスとメスの別々の遺伝子が半分ずつ組み合わされるようになると、新しいものが生まれてくる可能性が驚くほど高まったのです。

 どのくらい違うかというと、例えば無性生殖で1つの遺伝子に10の突然変異が起こったとすると、できる遺伝子の組み合わせは元のもの+10=11、つまり11通りだけです。

 ところが、有性生殖だと、10通りの突然変異が混ぜられて3の10乗通り、約6万通りができるのだそうです。

 大変な違いで、変異の数が増えれば、もちろん違いももっと大きくなります。

 実際、有性生殖によって生物の多様化が爆発的に促進されたといわれています。

 今、この地球上に確認されているものは一説によれば500万種、推測2500万種の生命がいろいろ多様に存在しています。

 さらに最近の説では、さらにその10倍くらい、2億5000万種くらいいるのではないかともいわれているようです。

 何とも大変な数ですね。

 そしてここで重要なポイントは、実に豊かな生命の多様性は性によってもたらされたということです。

 私たち人間の、個人個人のつごうとしてだけでなく、地球自体、性がなければ実に単調な世界のままだったでしょう。

 これまで、宇宙には自己組織化―複雑化という方向性があるという話をしてきました。

 「組織化」とは、混沌とした癒着状態でもなく、ばらばらな分離・分裂状態でもなく、全体がそれぞれの部分に分化――区分・区別できる状態になること――しながら、しかも統合されている、つまりつながりあってまとまりをなしているということです。

 オスとメスも、分化しながら統合されたかたちで、いのちをつないでいき、さらに新しいいのちのかたちを生み出していくという働きをするために、生命の歴史の中で創発したもののようです。

 そして、オスとメスのつながり-結びつきによって生命の新しい種が多様に生み出されてきたという生命進化の流れの中に、哺乳類も霊長類もそして現生人類もあるのです。

 オスとメスの分化と統合がなかったら、こんなにも豊かな生命の種が存在する世界にはならなかったし、人類も発生しなかったし、私の両親も私も生まれなかったんですね。

 そう考えると、確かに性の創発は進化の重大な事件の一つだという感じがしませんか。

 それは、個人レベルでいえば、みなさんそれぞれが、男性あるいは女性であるということも、宇宙進化の流れの中、生命進化の流れの中で一つの役割を担うように、ヒトのオス・メスになっているということではないでしょうか。

 生命進化における性の役割をまとめていえば、①いのちをつないでいくことと、②いのちをより豊かにしていくこと、の2つだといっていいでしょう。

 ということはまた、自分が男か女であることには、生命進化上での決定的な意味があるといえます。

 あるいは、さらに宇宙的な意味があるということもできるのです。

 もちろんいろいろな事情で、生理的に男性か女性かはっきりしない人もいますし、自分の生理的な性と心理的な性が一致しないという人もいます。

 もちろん、そういう人の人間としての権利は認める必要はあります。

 しかし、だからといって男と女の区別はなくなったほうがいい、同じであるべきだ、あるいはあいまいでいい、ということにはならない、と私は考えています。

 男と女が違った存在であり、男か女であるということには、生命の歴史の中ではっきり意味があるように思われます。

 ですから、男も女も、自分に与えられた性を「自分の好きなように勝手に」使うと、宇宙の方向性から外れ、その結果として自分にもまわりにもいろいろな歪み、傷、悪影響を与えることになるでしょう。

 この授業では、性の倫理について詳しくお話しすることはしません。

 ただここでは、もっともスタートのところから現在に到るまで、私たちが生かされて生きているこの宇宙には「関係ないだろ」、「私の勝手でしょ」といってすますことのできない事実があり、性に関してもそうだ、ということだけ、伝えておきたいと思います。

 ネット学生のみなさんは、ただの偶然だと思っていたかもしれませんが、「自分が男に生まれたこと、女に生まれたことには、宇宙的・進化史的な意味があるのではないか」ということを、ぜひ一度考えてみてください。

 そしてよかったら、何となく恋をしたり、安易にセックスをしたりする前に、「もしかすると、私が恋をしたり、セックスしたりすることは、宇宙の進化という長い長いいのちの流れの、ちいさな、けれどもとても大切な一こまなのかもしれない」と考えてみてはどうでしょう。

 そのほうが、恋もセックスも、それこそロマンティック、ドラマティックになるはずです。


*やや詳しくは、サングラハ心理学研究所のHPにアクセスして、会報第72号の「性と愛のコスモロジー」をお読みください。また、時々、「コスモロジー的恋愛論講座」を開催していますので、よかったらプログラムを見てお出かけください。

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近代とエコ・システムの破壊

2005年11月01日 | いのちの大切さ

 進化のこの段階まで来ると、生命でないもの(例えば太陽、大地、水、空気などなど)と生命が分化し、生命も微生物や植物や動物というふうに無数に分化し、でもすべてがしっかりとつながってエコ・システムをなしている、つまり統合されていることがわかります。

 宇宙は、分化と統合、分化と統合……というふうに複雑化し続けている、つまり進化しているのです。

 私たちもそういう進化の流れの中にあり、進化の流れが生み出したエコ・システムの一部として存在しています。

 それなのに、人間だけが、ほかの生命たちの都合を無視して、自分たちの勝手な産業活動をやっていいと錯覚しはじめたのが近代、この2~300年くらいです。

近代人は、この2~300年間、勝手なことをやって、その結果、海や大気が汚染され、二酸化炭素が増え、地球温暖化が起こり……たぶんまちがいなく、この数年の夏の暑さや暖冬、極端な雨不足かと思えば集中豪雨、ハリケーンの巨大化などなどの「異常気象」は地球温暖化のせいだと思われます。

 近代人のそうした自分勝手な産業活動は、実は近代合理主義と近代科学、それに裏付けられた技術と深く関わっていることは、すでにお話ししてきたとおりです。

 人間以外の自然と人間とは、おなじ1つの自然であり、つながりあいながら1つのエコ・システムをなしているのですが、近代人は、主体・人間と客体・自然が分離しているかのように考え、そうした分離思考を元に生活を営んできたのです。

 今、その限界・欠陥が決定的なかたちで現われ、エコ・システムが破壊されようとしているのではないでしょうか。

 エコ・システムは人類の生活の基盤ですから、それが破壊されれば、やがて人類の生活も崩壊してしまいます。

 しかし、私たちが、こういう40億年の生命の歴史、あるいは宇宙の137億年の歴史の中で、宇宙とつながり、自然とつながって、「生かされて生きている」というふうに自分を捉えはじめた時、今までとはちょっと違う人生観と生き方が起こってくるはずです。

 というより、そういう現代科学に裏付けられた新しいコスモロジーと、それに基づいた新しい技術と産業が生み出されないかぎり、いわゆる「環境問題」の根本的な解決はありえない、と私は考えています。

 いや、こういう否定的な言い方はやめて、肯定的に言い換えましょう。

 現代科学のつながりコスモロジーへの理解が大きく広がり、それに基づいた新しい技術や産業が創発する時、きわめて困難で、ほとんど絶望的にさえ思える「環境問題」に、根本的な解決の方向が開けてくる、と私は確信しているのですが、ネット学生のみなさんはどうお考えでしょう?

 ぜひ、意見を聞かせてほしいと思います。

 なお、私の「環境問題」についてのより詳しい意見に関心を持っていただける方は、サングラハ心理学研究所のHPにアクセスして「自然成長型文明に向けて」という論文をお読みいただけると幸いです。

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生命の相互依存

2005年10月31日 | いのちの大切さ

 話を先に進めましょう。

 酸素はとても結合力の強い元素で、単独の原子の状態であることはほとんどなく、ふつうは2つが結びついてO2というかたちになります。

 ところが光合成微生物や植物たちが出してくれた酸素の中にO3つまりオゾンになるものがあります。

 ご存知のとおり、オゾンには紫外線を吸収する効果があります。

 ごくわずかずつながら長い時間をかけてオゾンが大気圏の非常に高いところに一定量たまってくると、地上に注がれる紫外線の量がようやく減ってきます。

 光合成をする生物にとっては、陸は海中より利用できる太陽エネルギーが多くて魅力的な場所でした。

 しかし紫外線も強くて進出できなかったのですが、ここで、太陽の光の直射している陸上でも生命が生きていくことのできる条件が生まれたわけです。

*地球の大気は、高度20キロまでの対流圏、20―50キロの成層圏(この中20―30キロにオゾン層)、50―80キロの中間圏、80―500キロの熱圏、500―900キロの外気圏の5つの層からなっています。


 そういう条件ができたのに、放っておくという手はありません。

 実際、チャンスを逃さなかった生物たちがいたのです。

 まず陸に上がったのは、太陽エネルギーをできるだけたくさん利用したい植物です(動物が先かもしれないという説もあるようですが、ここではこちらの説を採用しておきます)。

 水の中よりもより光を多く取り入れられるので、上陸していく植物が出てきます。宇宙カレンダーの12月19日(4億3千9百万年前、シルル期)のことです。

 植物が陸に上がると、それが食べ物になりますから、それを追って動物も陸に上がっていきます。12月20日(4億8百万年前)、デヴォン期のことです。

 最初に上陸したのは、動物といっても昆虫だったようです。

 生命が創発してから35億年間、ずっと海の中にいた生命たちがまったくちがった環境である陸へと冒険というほかない進出を果たしていったのです。

 さて、この段階で起こったこと、そして今の私たちにそのままつながっている重要なことは、この地球では微生物と植物と動物が支えあい、相互依存して生きているということです。

 繰り返すと、私たちは生きているわけですが、生きているということは息をするということです。

 息をするには空気がなければいけない。

 空気の中の酸素がなければいけない。

 もちろん酸素原子は宇宙の初めのころに出来ていますが、様々な爆発=燃焼のためにほとんどが炭素と結びついていたと推測されています。

 そうした炭素と結合した酸素を分離して、この地球上の大気圏の分子酸素(つまりO2)にしてくれたのは、酸素発生型バクテリアや植物なのです。

 その酸素を吸って動物たちは生きています。

 そして動物は、二酸化炭素・炭酸ガスを吐き出します。

 植物は、動物が出した炭酸ガスの中の炭素と水から炭水化物を光合成し、栄養にしていきます。

 炭水化物に含まれる炭素は、動物の中でたんぱく質や脂肪の一部になっていきます。

 動物や植物が死ぬと、微生物によって分解され、炭素は二酸化炭素として空気中にもどっていきます。

 これを生物学・生態学の用語で「炭素循環」といいます。

 こういうふうに、炭素は空気―植物―動物―微生物の間を巡っています。

 つまりある時は空気だった炭素が、ある時は植物の体になり、ある時は動物の体になり、ある時は微生物の体になったり、また微生物によって分解されて空気にもどったりするわけです。

 筆者は、しばしば大きな木のあるところに行って、深呼吸しながら、こんなことを思います。

 「そうか、今私が吸っている空気の中の酸素は、この木が出してくれたものかもしれない。

 私が吐き出している二酸化炭素を、やがてこの木が吸ってくれるだろう。

 私ではなかった空気中の酸素が、私のからだの一部になり、私のからだの一部だった炭素が酸素と結合して出ていって、私ではなくなり、その炭素は私ではない木の一部になっていく……。

 空気と私と木とは、酸素と炭素を通じてまちがいなくつながっている。

 自然と分離した私だけで生きていられるような『私』なんていないのだ。

 私はまちがいなく宇宙とつながって一つだ……」と。

 何より私たち動物は、自力で太陽エネルギーを生命エネルギーに換えることはできませんから、植物かその植物を食べて生きている他の動物を食べさせてもらうことによって、間接的に太陽エネルギーを生命エネルギーとして得ているわけです。

 その植物や動物は、死ぬと腐敗して、つまり微生物によって分解され、簡単な化合物に帰ります。

 その化合物は、やがてまた別の植物の栄養として吸収されていきます。

 これは、生物学の用語では「食物連鎖」と呼ばれるものです。

 循環は、炭素や酸素だけのことでなく、生物の体を形成するすべての元素で起こっているのです。

 かつて、生物の世界は「強食弱肉」と「生存闘争」の世界だいう、かなり短絡的なイメージのあった時代がありました。

 文科系の学生たちに聞くかぎりでは、この後の話をするまで、ずっとそういうイメージだったという人の数も少なくありません。

 ネット学生のみなさん、だいじょうぶですか?

 しかし、今では一見そう見える生物の関係を、個体と個体ではなく、種相互の関係として見直すと、そこにはあるバランスが保たれていることがわかってきています。

 これは、1869年、ヘッケルがエコロジー(生態学)を提唱してから100年以上の積み重ねの中で、疑う余地のないほど明らかになっていることです

 もっとも有名なのは、北アメリカ――記憶ではロッキー山脈の麓のあたり――で、シカが天敵に食べられてかわいそうだと思った動物愛護家たちが、オオカミやコヨーテやピューマなどをライフルで撃ち殺して絶滅させかかった時の話です。

 天敵がほとんどいなくなったお陰で、確かに当座はシカは好きなように繁殖できたのです。

 ところが、シカは地域の木や草を食べます。

 繁殖しすぎたシカたちは、その地域の植物を食べ尽くし、植物が全滅になりそうになります。

 そうすると、食べ物がなくなって、シカは自滅-絶滅の危機に追やられることになったのです。

 こういうふうに、1匹1匹のシカを見ると、天敵に食べられることは不幸なことですが、全体としてみると、適当な数が食べられて減らなければ地域の生命全体のバランスが崩れ、種全体が絶滅しかねなくなるのです。

 シカは植物を食べ、そのシカを食べたオオカミも、やがて死んで、微生物のエサになります。

 そして分解された化合物を、また植物が吸収していきます。

 そういうふうに、長いタイム・スケールでよく見ていくと、オオカミもひたすら食べる側にだけいるわけではないことがわかります。

 実際にはもっともっと複雑ですが、ともかくある地域に存在するさまざまな生命の種の間に(そしてその場所そのものとも)微妙なバランスが保たれることによって、全体が維持されているのです。

 こういうふうに、ある環境とそこに生きる生物の多様な種がバランスを保ちながら1つのシステムを形成していることを「エコ・システム(生態系)」ということは、多くの方がご存知のとおりです(より詳しいことはエコロジーの本で学んでください)。

 もちろん、生物同士の間にある種の争いがないわけではありません。

 しかしそれは、ひたすらどれかが勝ってあとはすべて滅ぼされるというふうな闘争ではなく、「競争的共存・共存的競争」がなされているのだといわれています。

 例えばごく身の周りの草むらをよく観察してみてください。

 実に多様な植物が、栄養や日光を得るための競争をしています。

 しかし、決してどれか1つの草だけが他の草を枯らして繁栄し続けるということはありません(一時的にそう見える場合はありますが)。

 そして、その草むらには実に様々な虫たちが生きているはずです。

 草の根元の土の中には、ミミズやオケラや様々な微生物などが住んでいるでしょう。

 そうした生き物たちは、競争しながら、同時に共存・相互依存もしているのです。

 そういうふうに、微生物と植物と動物の相互依存が20億年前からこの地球上で始まっていて、微生物と動物と植物はつながっているわけです。

 あるいはもっと言えば、もともと同じ宇宙の一部がそれぞれ、微生物、植物、動物という区別できるかたちを現わしながら(分化)、つながりあい働きあっている(統合)といえるでしょう。

 実に多様に分化しながら統合された1つのシステムを形成していくのが、宇宙の進化に一貫したかたちだということが、ここでも読み取れるようです。


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光合成微生物と植物と私のつながり

2005年10月30日 | いのちの大切さ

 宇宙カレンダーの10月18日(27,8億年前)、酸素発生型の光合成をする微生物・シアノバクテリアが登場し、分離した分子酸素を出しはじめます。

 といっても、倍率の高い顕微鏡でしか見えないほどの単細胞の微生物です。きわめてわずかずつでしかありません。

 しかしどんなにわずかずつでも出していれば、溜まっていきます。

 なんと6~9億年も経って、11月3日(19~22億年前)頃からやっと大気中の酸素量が増加しはじめるのです。

 実にゆったりとした速度ですが、それでも確実に私たちの地球は進化していきます。

 さらに11月8日(20億年前)、つまりさらに2,3億年も経って、光合成をする植物が出てきます。

 このようにほとんど想像もできないほどの長い時間をかけて、シアノバクテリアが生まれ、植物が生まれ、今私たちが吸って生きている酸素の多い大気が調えられていきます

 11月29日(12億年前)になって、ようやく明確な酸素大気が発達――完成ではありません――しはじめたと考えられています。

 酸素発生型バクテリアの創発から15,6億年も経っています。

 しかし、この段階ではまだすべての生命は海の中です。

 その最大の理由は、酸素の豊富な大気圏が形成されていない、したがってオゾン層が形成されていないからです。

 オゾン層なしの状態では、太陽から来る非常に強い紫外線が地上に直接に降り注いでいるので、生命は、紫外線が吸収されて弱くなった海の深めのところでしか生きられず、浅いところや海の外では死んでしまいます。

 地上は溶岩の固まった岩かまだ噴火している火山ばかり、花はもちろんのこと、木や草も一本も生えていません。

 一匹の虫も動物も動いていません。

 想像しただけでも、凄まじく荒涼とした世界です。

 そんな世界が、おそらく12月19日(4億3千9百万年前)頃まで続きます。

 ところが、きわめてゆっくりではあるのですが、それでもやはり海中の酸素発生型の光合成バクテリアと植物(といっても微生物)はしだいに増えていき、放出する酸素量も増えていきます。

 そうして、現在の地球大気に近い酸素の多い大気圏が形成されていきます。

 光合成バクテリアの創発から大気中の酸素量が増えはじめるまででも15,6億年、オゾン層が形成されて、地上に出ても紫外線で細胞膜が壊されない、つまり死なない状態になるには、なんと24,5億年かかっています。

 さて、ここで断片的な科学知識としてではなく、コスモロジー(世界観)として、このことの意味を考えて見ましょう。

 バクテリアは、私たちと無関係ではありません。

 最初のバクテリアは私たちの先祖であり、他の種も先祖から分かれた親戚なのです。

 さらにバクテリアのような生命から進化・分化して、植物が生まれます。

 植物も、私たち動物と枝分かれした親戚です。

 つまり、40億年前のご先祖さまや27,8億年前の親戚、20億年前の親戚たちが、その後の子孫である多様な酸素を必要とする好気性生物のために、24,5億年もかけて、酸素大気というプレゼントを準備してくれたといってもいいでしょう。

 驚くほど根気強い努力です。

 その努力のお陰で、今私たちが呼吸できるのです。

 英語のpresentという言葉には、「贈り物」と「今」という2つの意味があります。

 今という時は多くの先祖たちからの贈り物だといっていいのではないでしょうか。

 すでに気づいている読者も多いと思いますが、こういう事実は、たままたそうなっただけ、偶然だと解釈することもできます。

 また、近代科学には、宇宙の始まりから現在まで、すべてを偶然そうなったと捉えるのが科学的な考えだという、強い偏見――あえて「偏見」といいたいと思いますが――がありました。

 しかし、すでにいくつか引用してきたように、「現代科学」では、そうとう事情が変わってきています。

 少なくとも、宇宙で起っているすべてのことが宇宙の自己組織化――自分で自分をそう変容させてきた――の結果であるということについては、1977年プリゴジーヌのノーベル賞受賞以後の現代の科学者にとっては、当然の合意ラインだと思われます。

 そして、それよりも何よりも、「無数の先祖たちのお陰で今私がいる」という捉え方のほうが、はるかに人生を豊かにするものではないかと思うのですが、どうでしょう。

 しかし、どちらの捉え方をするか、現段階では、それぞれの選択の自由・思想の自由だということになるでしょうが。

*前にも載せた地球の写真を再度載せます。地平線のあたりの青くぼやけているごく薄い層が大気圏です。酸素21%のこの薄い膜を海の中の光合成微生物と植物、そして遅れて地上の植物が協力して作ってくれたのです。できれば拡大して、しみじみと見てください。


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生きていることは息をしていること

2005年10月29日 | いのちの大切さ

 生命の誕生は、宇宙の外に宇宙でない生命というものができたということではありません。

 それは、宇宙の中に宇宙の一部としてそれまでにない新しい性質を持った部分ができたということ、すなわち宇宙の創発的な自己組織化なのです。

 ビッグバンから原子の誕生、星の誕生、銀河の誕生、太陽系の誕生、地球の誕生、そして生命の誕生まで――そして実は私の誕生まで――すべては1つにつながった創発的な出来事の連なりなのだ、と確実にいえるようです。

 ところで、私たち人間が生きているには、息をすること・呼吸が必要です。

息をするとは、出空気中の酸素を吸収して、二酸化炭素を吐き出すことですね。

 「何を当たり前のことをいっているんだ」と思われるかもしれません。

 しかし、いわれてみるとすぐわかるけれども、いわれるまで気が付かない方も多いのではないかと思いますが、息をすることについて、私たちには選択の自由はありませんよね。

 「息をしようとしまいと私の勝手でしょ」というわけにはいかないのです。

 もちろん、首をくくって自殺することはできますが、生きるのなら、息をしなければなりません。

 それは生きていくための選択の余地のない基本的な条件です。

 そして、それがいろいろなことを選択しながら生きることができる基礎でもあるのです。

 現在の地球の大気は、窒素が78%くらい、酸素が21%くらい、アルゴンが0.95%、二酸化炭素と水蒸気その他が1%弱という割合になっているそうです。

 だからといって、「窒素のほうが多くて有利だから、オレは窒素を吸うことにする」とか、「アルゴンのほうが希少で価値がありそうだから、アルゴンにする」といった選択は不可能なんですね。

 ここで改めて、最初にお話しした「自由に選択できない条件が自由に選択できる基礎になっている」ということを思い出してください。

 私たちの生きる決定的な条件・基礎の一つ、酸素を吸い二酸化炭素を吐くということも、進化の歴史の中で決められ、与えられたことです。

 では、それは、いつごろ、どういうふうに決まったのでしょうか。

 すべての生命は生きていくために、何よりも炭素、水素、酸素、窒素と、エネルギーが必要ですが、生命は最初から酸素を吸収していたわけではないようです。

 小惑星や隕石の衝突による激しい爆発-燃焼によってできたため、原始の地球大気には、分離した酸素はほとんどなかったと推測されています。

 最初の生命は、有機物のスープのような原始の海の水から、糖の一種であるグルコース(ブドウ糖、C6H12O6)を食べ、分解して、生きていただろうといわれています。

 糖の分解は一種の発酵で酸素は必要ではないのです。

 それどころか、そういう生命(嫌気性細菌)にとっては、酸素は生命にかかわる毒だったといいます。

 ところが、生命が創発し、20億年もかかって膨大に増えてくると、さすがに豊富にあった海中のグルコースが不足してきます。

 食糧危機、飢死の危険が出てきたのです。

 ところが驚くべきことに――驚くべきことばかりですね――それに対処する方法を考え出した生物がいるのです。

 思わず「考え出した」という表現を使ってしまいましたが、単細胞の微生物に考える能力=知恵があったのでしょうか?

 それは、単なる生存に有利な突然変異がたまたま起っただけなのでしょうか?

 知恵があったとしかいいようがない、と私は感じるのですが、それはおいておきましょう。

 ともかく、まず自分でグルコースを合成することのできる生命が生まれます。

 さらに、太陽の光のエネルギーを使ってより効率的にグルコースを合成できる生命が生まれてきます。

 そうです、「光合成生物」です。

 最古の光合成を行なう生命、シアノバクテリア(ラン藻)は、化石から見て遅くとも35億年前、宇宙カレンダーの9月29日頃には誕生しているといわれています。

 初期の光合成は、太陽エネルギーを使って、二酸化炭素と、水素ガス、硫化水素などから取った水素でグルコースを作るというものでした。

 しかしやがて、地球に豊富にある水を分解して水素を取るというかたちに進化していきます。

 水から水素を取ると、残るのは酸素です。

 そうです。この頃からようやく地球の大気に酸素が含まれるようになっていくのです。


 酸素発生型光合成生物の創発は、10月18~21日(27~28億年前)のことです。

 これは、進化史の2大事件の1つという科学者もいるほどの出来事です。

 つまり、これはずっと後の、私たちを含む酸素を吸って生きる生物が、生まれ生きていくための基本的条件がこの時から始まったということなのです。

 今私が呼吸をしているということは、27、8億年前の光合成微生物の創発と根本的に関わったことなのですね。

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すべての生命は共通の先祖から生まれた?

2005年10月28日 | いのちの大切さ

 近代ではなく現代の生物学によれば、生命は物質を基礎にしていますが、単純に物質に還元できない新しい性質をもっています。

 といっても生命は、つながりあった原子=分子、さらに分子がいっそう複雑にしかしデタラメではなく整然とした秩序をもってつながりあった高分子という物質に支えられていることはまちがいありません。

 生命を支えている高分子には、たんぱく質(酵素の主体)、多糖類(でんぷん等)、核酸があり、よく知られているように様々な生命のかたちを決める遺伝情報はDNAと呼ばれる複雑な核酸によって担われています。

 そして、1950年代、ワトソンとクリックによる遺伝子のラセン構造の発見以来、今日までに研究されてきた生物は、不思議なことにもっとも単純なものからもっとも複雑なものまですべて基本的には同じ構造のDNAを持っているらしいのです。

 そして、すべての生命のDNAの違いをいわば系図のように調べていくと、どうも38~40億年くらい前に地球上-海の中で発生した1つの生命がすべての生命の祖先であるようです。

(1つだけではないという説もありますが、それにしてもごく少数の生命からということのようです)。

 もしその仮説が正しいとすると、すべての生命は、たった1つの共通の祖先から驚くほど多様に展開・進化してきたものだ、ということになります。

 つまり、すべての生命はつながっているわけです。

 そして、そういう38~40億年の生命のつながりの中で私が生まれているのです。

 K・マーシャルという女性科学教育家の『人類の長い旅――ビッグ・バンからあなたまで』(さ・え・ら書房、87頁)という本には、こう書かれています(読みやすくするために改行、1行あけを加えています)。

 「人間のからだをつくっている化合物……じつは、動物や植物の化合物とまったくおなじなのです。
地上のすべての生きものには、アミノ酸と核酸塩基があります。

 そして、将来の世代をつくり出すための指令となっている、複雑なかたちのDNAの分子をもっています。花と木と魚とトカゲとトラとゾウと人間と、それぞれのあいだのちがいは、ただ化合物のならびかたと、DNAが伝える命令のちがいだけです。

 このことからわかるのは、わたしたちはみな、おなじ生命の木からはえているえだなのだということです。」

 現代日本の代表的な生物学者岩槻邦男さんの言葉も聞いてみましょう(『生命系――生物多様性の新しい考え』岩波書店、17頁)。

 「……自分の生命は何百万年前にさかのぼると、ヒトの身体から、だんだんサルに似た生命体に収まっており、さらに時代を億単位の年数で数える昔にさかのぼると、魚のような姿の生命体の中で生きており、30億年も前にまで歴史をさかのぼると、ついにはバクテリアのような姿の生命体に収まっている生命にまで到達することを確認する。

 ……生物のひとつの個体は、個体がつくるとき誕生するものであるとしても、生きている生命は個体をつくる生命体を乗り換えながら、30数億年前からの生を生き続けているのである。」

 「さらにここで考えておかなければならないことは、30数億年生き続けてきたのは、ヒトの生命だけではない、という事実である。

 私たちの身の回りにいる生物はすべて、30数億年の生命をもっているのである。」

 すべての生命は、最初のたった1つの単細胞生物の生命を引き継ぎながら、30数億年かけて多様に進化-分化したものです。

そういう意味でいうと、すべての生き物は共通の先祖を持った親戚です。

 遠い遠い関係だとしても、でもやはり親戚なのですね。

水中や地下の微生物も、道端の草や山の木も、セミやトンボもチョウも、イヌもネコも、数え切れないほどのいろいろな生き物が、みんな自分の親戚だということが、科学の眼からも語ることができるというのは、とても不思議で、とても感動的なことだとは思いませんか。

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生命の創発

2005年10月26日 | いのちの大切さ

 宇宙カレンダーの9月16~21日頃(38~40億年前)、原始の海は、煮えたぎる 原子や分子のスープ状態でした。

 熱湯の海には、暴風雨の雲の合間から絶え間なくイナズマが閃き落雷します(放電)。

 オゾン層はまだできていないので、遮るものなしに強烈な紫外線が直射し、宇宙線が降り注ぎます。
 
 酸素大気がないので、隕石は途中で流れ星になって燃え尽きることなく、海も陸も直撃します。

 化学反応を引き起こすそうしたいくつもの要因によって、海では激しい化学反応が起こり続けます。

 それによって次々に、様々な原子がつながりあって分子が生まれ、分子が複雑につながりあって高分子が生まれていきます。

 ここで重要なのは、複雑といってももちろんデタラメではなく、整然とした秩序をもってつながっていく、つまり「組織化」していくということです。

 理科系の苦手な人は、面倒な化学式はいったんぜんぶ忘れましょう。

 ただ、そのシーン、つまり物質がダイナミックに「自己複雑化・自己組織化」していくシーンをイメージしてみていただきたいのです。

 原初、1つのエネルギーだった宇宙が、やがてクォーク、そして陽子や中性子や電子、さらに原子、分子、高分子と自己組織化を遂げていくシーンを想像してみてください。

 1つの宇宙の中の地球の中の海の中で、高分子が誕生するのですが、しかしそれは宇宙のある部分が自己組織化してそういう形になっただけであって、宇宙でない何かになったわけではありません。

 高分子がさらにつながりつながって、複雑化のあるレベルをジャンプした時、それまでには存在しなかった「生命」という存在が、宇宙の中の天の川銀河の中の地球の中に、誕生します。

 それまでは物質だけだった世界に、物質を基礎としながら、ただの物質には還元しきれない、新しい特性をもった「生命」という存在が生み出されたのです。

 (「生命の特性はそれが創発する前の物質の特性には還元できない」、つまり「生命は物質に還元できない」というのは、現代生物学の大きな合意点だと思われます。)

 さて、ネット学生のみなさん、単なる物質に還元することのできない「生命」特有の性質というのは、何だったか覚えていますか?

 私たち人間は、まぎれもなく「生命」の1種ですから、生命の特性を知らないということは、自分の特性をも知らないということになりかねません。

 ぜひ、ここで苦手だったかもしれない「生物」の暗記項目としてではなく、自分の本質として、生命の本質をつかみなおしておいてください。

 生命の特性とは、①細胞膜によって自分と外部を区分しながらつながっている、②新陳代謝によって外界と交流しながら自分を維持する、③生殖によって自分とほとんど同じ生命体を複製する、という3つでしたね。

 (これに④成長する、を加えることもあります。)

 英語の科学用語で、それ以前にはなかった新しい性質が生まれることをemergence といいます。

 「発現」あるいは「創発」と訳されますが、私は「創発」という訳語が非常に気に入っています。

 それまで存在しなかったまったく新しいものが「創造的に発生する」というニュアンスがとても印象的で心に響くからです。

おそらく、38億から40億年前、1年に縮尺した宇宙カレンダーでは秋の実りの季節、海の中で生命が創発したのです。

ということは、同時に地球上に、太陽系に、天の川銀河系に……ということはすなわち宇宙に生命が創発したわけです。

 (もしかすると、すでに広い宇宙のどこかの星で生命が創発していたかもしれませんが、それは今のところわからないことなので、カッコに括っておきましょう。)

 浜辺に立って大きな海を眺めると、一種独特の感じが心に湧いてくるという方は多いのではないでしょうか。

何か、大きな、包むような、力に溢れた、しかし優しさ……といった感じです。

 浜辺を歩いていると、打ち上げられた海草やカニや小魚の死骸、無数の貝殻、そして嵐の後には大きな魚や海鳥の死骸などが目に入ります。

 無数の命を宿し、無数の死をもたらし、しかし海の波は絶えることなく、寄せては渚で砕けそして帰っていきます。

 それは、ほとんど永遠に近く繰り返すいわば海の脈動です。

 そうした海辺のシーンを見ている時、私は、海が数え切れないほどの生と死の営みを包み込んだ「母なる海」なのだと実感するのです。

 そしてそれは、おそらく私を含むすべての生命が元々海で生まれたことの太古の記憶に関わっているのではないか、と思ったりするのです。

 どこかで(うまく思い出せないのですが)、フランス語では海も母も「メール」であり、漢字の「海」には母という字が入っている、という詩を読んだことがあります(堀口大学だったか)。

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母なる地球の胎動

2005年10月25日 | いのちの大切さ
 46億年前、太陽系の第3の惑星として地球は生まれたのですが、私たちのこの地球は、他の惑星にはない特徴を与えられた星でした。

 それは、金星や水星のように、太陽からの距離が近すぎて熱すぎ、水がぜんぶ蒸発してしまうこともなく、火星や木星、さらに遠い惑星のように、遠すぎて冷たすぎ、水がぜんぶ凍り付いてしまうこともなかったということです。

 他の惑星とちがって地球は、液体状の水がたっぷりとあるので、「水の惑星」と呼ばれています。

 ここで、私たちの体の七〇パーセント近くが水だということを思い出しましょう。

 つまり、細胞の大部分は水であり、ということは、水なしにはあらゆる生命活動がありえないということです。

 もし、地球が太陽にもっと近かったり、遠かったりしたら、水の惑星でなくなっており、そうすると、あらゆるいのちも、もちろん私のいのちも存在しなかったのです。

 太陽と地球の絶妙の距離が、いのちがいのちであること、私が私であることを可能にしているのです。

 何と不思議なことでしょうか。

 これは、単なる偶然なのでしょうか?

 それとも、そこに宇宙の摂理のようなものがあるのでしょうか?

 それはともかく、生まれたばかりの地球は灼熱地獄のような高温で、すぐに生命が生まれるような状態ではなかったとかんがえられています。

 小さな惑星が激しい衝突によって集まり、その熱で惑星の内部の水や二酸化炭素が放出されます。

 創発直後の地球は、水蒸気や二酸化炭素の厚い大気で覆われていたようです。

 それは、今問題になっている「温暖化」の原因とされる二酸化炭素の濃度とは比較にならないほどだったのです。

 その厚い大気の「温室効果」で、熱の放散がほとんどといっていいほど妨げられ、地表の温度はどんどん上がり、溶けて、「マグマの海」状態になります。

 しかし長い長い何億年もの時間をかけて、ようやく次第に温度が下がってきて、マグマは固形化しはじめます。

 それにつれて、大気の温度も下がってくると、地球は大気中の水蒸気が凝集してできた厚い雲に覆われます。

 ようやく一部が固形化しはじめ、ある部分ではまだマグマが燃えているという状態の地表、そしてその上には厚い雲に覆われた真っ暗な空という地球を想像してみてください。

 さらに温度が下がると、その厚い雲が熱い雨になり、地球の表面あらゆるところが絶え間ない土砂降りというすさまじい状態になります。

 しかし地表の温度はまだ下がりきっていませんから、雨は、焼けたフライパンに注がれたお湯のように跳ね上がって蒸発し、水蒸気そして雲になり、また少し冷えると雨になって降り注ぐ……。

 雲は静電気を帯びていて、絶え間なくイナズマが閃き、カミナリがとどろきます。

 地球の表面は、年中嵐どころか、何千年も何万年も、さらに数億年の間、信じられないほど暗く荒々しい嵐の世界だったようです。

 さらに時が経ち、焼けたフライパンのような地表がようやく冷えてくると、水の蒸発が少なくなり、地球の表面のくぼんだ部分に溜まってきます。

 「原始の海」が創発したのです。

 地球を覆う大気とこの熱湯状態の原始の海の水には、生物にとって必要な元素すべてが含まれていました。

 もちろん、ばらばらの原子としてではなく、ほとんどがすでにそうとうに複雑に結びついた様々な分子として存在していたようです。

 ここで、まだ生命は一つも生まれていない、しかしまちがいなく生命の誕生に向かって、長い長い激動――まさに誕生に向かう「胎動」、産みの苦しみ――を続けている地球を想像してみてください。

 そういう想像をすると、私は、感動せずにはいられませんし、古代の人々が大地を「母」あるいは「母なる神」と呼んだことの意味がいっそうよくわかる気がします。

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