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昨日記20210416 金(さぼり癖と趣味の話)

2021年05月05日 20時44分54秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
午前中漫然とTVの情報番組を見ていた。
最近は、疲労していなくてもこんな過ごし方をしていることが多い。
時間があると、図書館から借りた本や、gaccoで視聴し勉強しなければならない科目や、YouTubeで時間のある時に視聴し勉強しようと、お気に入りリストに入れている、番組(丁寧な解説で本を読むよりわかりやすいことが多い)があるのに、読んだり視聴せずに、時間が来て慌てて読んだり視聴すむことが多が、多くの場合時間切れになることがほとんどだ。
こうしたさぼり癖は、たぶん子供のころからだと思う。
このブログの中でも、怠惰に関し数えきれないぐらいの反省を書いているが、効果がない。

さすがに、会社員のころは、仕事に関しては手を抜いたことはないし、開発等で技術的に克服しなければならない問題については、土日祝日にかかわらず深夜まで考えたり研究調査し、最先端の知識や技術を持っている自負はあったが、会社員でなくなると怠けるようになった。
ただ、自営業で画廊をしていたころは、現代美術やそれに付随することを本で調べ必死に学んだ。
しかし、美学・哲学の知識を学んで得た結論は、芸術は価値観により評価が変わるし、作家や鑑賞者のレベルによっても、評価が分かれ、正解がないということが今の考えだ。
そもそも価値観や感覚はある意味、信仰(信仰や好き嫌いも価値観の一つ)と同じで、正解はない。
画廊をしたおかげで、美術関係の本や哲学書を読むようになった。
考古学は、サラリーマン時代に失業していた時に発掘調査のアルバイトを1か月以上してからの趣味で、専門書を読み漁っている。
発掘調査のアルバイトをしたときは、考古学や古代史については、まったくのド素人だった。
考古学・古代史について、はじめ勉強し始めたときは、無数の地名・遺跡名・人名・遺物名・が出てきて、古代史の場合、歴史の流れもあり、記憶しなければならないことが多すぎて、考古学の本を読むのをあきらめようと思ったことがある。
特に、そう感じたのは、新書版の本で、原田大六の「邪馬台国論争」だった。
原田大六は、九州の学者で当時考古学の権威だった学者たちに、批判の論文を書いていた。
そうした彼の主張が詰まった本で、専門用語だらけで読むのに非常に時間がかかった。
その本に強く影響を受け、その後原田大六の著書を何冊も読んだ。
今は、原田大六について、その当時の出土物からわかる範囲の学説を唱え、考古学に大きな足跡を残した人物の一人と考えている。
ただ考古学は、出土物や科学技術の進化で、劇的に学説が変化し、それまで正しかった学説が間違っていて、過去の学説になることが多い。(例:弥生時代の始まりと稲作の普及の問題。地域の弥生文化の受容の仕方。・・弥生文化はかなり長い間、縄文文化と並行していた可能性。コメは作っていても縄文文化を残している地域もあったり、稲作を放棄し縄文文化に戻った地域もあった。)
ここ2-30年前?から、原田大六の学説を評価する動きが出て、いくつかの博物館で糸島はじめ北九州の弥生墳墓展と関連して、かれの業績を評価する展覧会も開かれている。

話が、趣味の世界になった。
さてこの日の午前中は、ぼーっと過ごし午後は遅れている昨日記を書いた。
夜は、副食作りを行った。

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