思惟石

懈怠石のパスワード忘れたので改めて開設しました。

『オスマンvs.ヨーロッパ 』 歴史のコネクティングザドッツみ〜

2023-05-24 17:45:31 | 日記
『オスマンvs.ヨーロッパ  〈トルコの脅威〉とは何だったのか』
新井政美
講談社学術文庫

サブタイトルの通りですが、
ヨーロッパが感じていた「トルコの脅威」とは何だったのか。
を、両者の視点から解きほぐす一冊。

前半では、世界視点でオスマン帝国の成立までを描きます。
後半は、オスマン側に軸足を置きつつ、ヨーロッパとの関係性を解説。
あっちこっち読んでいた講談社現代新書たちの
コネクティングザドッツみがある一冊。
楽しいな!

前半でおもしろかったのは民族大移動かなあ。
モンゴル強すぎてトルコ系が西に押され、
トルコ系遊牧民(フン族)が強すぎてゲルマン人が西に大移動する。
これが世界史で習う「ゲルマン民族大移動」である。
って、ゲルマン民族、玉突きで押し出されてるじゃん〜。
モンゴルつよ〜。

(ノルマン人大移動のつよつよエピソードに比べると
 味わい深いなあ、と笑
 いきなりイギリスと南イタリア&シチリア征服してるの、
 「ほげ〜」って思ったけど、やはりモンゴル最強か…)

あとは、アラブ系イスラム国家から、
トルコ系イスラム国家への変遷もおもしろかった。

11世紀までにカラハン朝、セルジュク朝が
トルコ系イスラム教国になる。
→アナトリアのイスラム化&トルコ化が進む。
→アナトリア=ルーム(ローマの意)から
 トゥルキーヤ(トルコ人の地)へと変遷。
ふむふむ。です。

後半。
オスマン帝国が一気に拡張した時代
バヤズィト1世と戦った(1396年)のは
ルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝ジギスムント。
この人は後にヤン・フスを火刑に処してフス戦争を引き起こす人。
ジギスムントの父は神聖ローマ皇帝カール4世。
ハプスブルクの破天荒野郎ルドルフに振り回された苦労人。

コンスタンティノープル陥落(1453年)の
メフメト2世の時代は、
フリードリヒ3世(神聖ローマ帝国の大愚図)の時代。
(ビザンツ帝国滅亡の際のフリードリヒへの
 菊池先生による悪口は冴え渡っている笑)

オスマン帝国の英雄スレイマン(1520−1566)の時代は、
神聖ローマ皇帝カール5世(ハプスブルク)と
フランソワ1世(フランス・ヴァロワ朝)がゴリゴリに
喧嘩していた時代だというのも、ドッツ味があって楽しい。

カール5世の息子はフェリペ2世
イギリス女王メアリと結婚してた人(色気むんむんの皇太子画の人)。
フランソワの息子はアンリ2世。
嫁はカトリーヌ・ド・メディシス
息子が3アンリの戦いに負けヴァロワ朝終了。

そしてスレイマン時代のオスマン帝国は
ビザンツを滅ぼした直後でイケイケである。
スレイマンが皇帝(カエサル)を自称し、
東西帝国を統べるという意識があったという視点は新鮮だった。
版図を見ると、それも納得という広大さだ。

スレイマンは、カール5世のことを「スペイン王」としてしか
認識していなかったというのも面白い。
お前、ハンガリーになんでちょっかい出してくんの?
と思うよな、そりゃ。

ミケランジェロやダヴィンチも
イケイケ時代のオスマン帝国からお誘いがあったとか。
散々迷ったけど二人はヨーロッパに留まったとか。
こうやって見ると、当時、思想的に拓けていたのは
断然オスマン側だったんだなあ、と。

歴史って学べば学ぶほど学びの味が出る。
するめみたいだな。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『文豪たちの手紙の奥義―ラブ... | トップ | 『ロボット・イン・ザ・ガー... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事