鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その7

2013-12-08 05:19:17 | Weblog

 「岡登霊神社」(おかのぼりりょうじんしゃ)は、「神明宮」へと続く参道の左側に、かなりの敷地を占めて鎮座していました。

 木の門を潜ると、参道の突き当りに立派な社殿があり、その額には金色の文字で「岡登景能公」と記されていました。

 戻って、「神明宮」へと続く長い参道を左手に「岡登霊神社」を見ながら歩き、突き当りの「神明宮」に至りました。

 社殿そのものは、「岡登霊神社」に較べるとずっと質素です。

 柱に「家内安全 交通安全 金運之神 郷社神明宮」と墨書された板が掛けられていました。

 この「神明宮」は、おそらくこのあたりを開発した幕府代官岡登景能が勧請(かんじょう)した寺社の一つであり、その神社の広い境内に、後になって「岡登霊神社」が土地の人々によって創建されたのです。

 その「神明宮」の南隣にあるのが「宮林山全性寺」。真言宗豊山派のお寺。

 「←町指定重要文化財 全性寺本堂欄間彫刻」と記された案内標示があり、また駐車場入口の角には「←シベリア抑留 戦没者慰霊塔」と青地に白く記された看板が立てられていました。

 気になって駐車場へと入ってみると、その駐車場南側の真ん中あたりに石製の多重塔があり、その礎石に「シベリア抑留戦没者 慰霊の塔」と刻まれていました。

 しかしそのいわれのようなものを記したものは、どこにもありませんでした。

 このお寺の檀家の中で、アジア太平洋戦争後にシベリアに抑留されてそこで亡くなった人たちが多数いたのかも知れません。

 ぜひ、解説が欲しいものだと思いました。

 この全性寺の駐車場を出て、県道69号線(大間々世良田線)を、「深谷 尾島」方面に向かってひたすら南下。

 国道312号線(日光例幣使道)にぶつかって、太田方面に左折したのが14:35。

 新田(にった)中江田町から新田木崎(きざき)町(木崎宿)に入って、貴崎神社の裏手の道を通って東武伊勢崎線の木崎駅に出たのが15:15頃。

 木崎駅から東武線に乗って太田駅まで行き、そこから東武桐生線や上毛電鉄を利用してJR桐生駅まで戻りました。

 途中で、このルートは崋山が通った道ではないことに気が付いたのですが、そのまま県道大間々世良田線をたどって、木崎駅まで歩きました。

 東武桐生線の藪塚駅近くで道を間違えたのは確かなことなので、次回は藪塚駅まで行って、あの交差点から「山の神」に向かって歩いていく(県道332に沿って)ことに決めました。

 しかしルートを外れたものの、笠懸野を開発した幕府代官岡登景能のことを詳しく知ったのは収穫でした。

 また「山の神」が、岡登景能によって開発されて新設された8つの村の一つであり、どうやら「大山祇(おおやまづみ)神社」の勧請(かんじょう)と関係がある村の名前であることを知ったのも、思わぬ収穫でした。

 

 続く

(次回からは、藪塚から山の神、下村田などを経由して木崎までの、崋山が歩いたルートをたどります)

 

〇参考文献

・『客坐録 天保二年 全楽堂』(平凡社教育産業センター)

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・『谷文晁』(サントリー美術館) 

 



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