鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その4

2013-12-05 05:28:33 | Weblog

 生品阿左美神社の境内西側に沿って走っている道を南下し、県道78号線と合流したのが10:59。

 角に「倉寿司」としいお寿司屋さんがありました。

 県道に出ると、「町指定文化財 牛の塔 手前80m 県指定史跡阿左美縄文式文化住居跡 1.7km」と記された案内標示板を見掛けたので、県道を桐生方面へと戻る形で少し歩いて行くことにしました。

 というのも「牛の塔」という、おそらく石造物は、この県道に沿ってあるものと考えたからでした。

 しかし北方向へとかなり歩いてもそのような石造物は見当たらず、途中、やや早いながらも昼食と休憩を兼ねて入ったうどん屋さんの方に聞いて、ようやくその石造物は、もっと南方向へ進んでからやや右手(西側)に入っていったところにあるらしい、ということを知りました。

 そこでうどん屋さんを出てから、県道を戻り、先ほど合流した地点をやや過ぎたところで「町指定文化財 牛の塔 80m 県指定史跡 西山古墳2.3km・北山古墳2.9km」と記された案内標示を見掛けました。

 よく見ると、「牛の塔」のところの矢印は曲がっており、その「80m」とは県道から右折していって「80m」であるという意味であることを知りました。

 この県道に沿ってあるはず(道の傍らに)だ、という思い込みから時間をかけてしまうことになったのです。

 「牛の塔」は、崋山がそれをスケッチしており、ぜひそれを見てみたいという思いもありました。

 そこで県道から右折して道を進んで行くと、今度は「町指定文化財 史跡 牛之塔 この先50m」と記された案内標示が現れ、まもなく史跡「牛の塔」のところに差し掛かりました。

 かなり年輪を経た大き目の石塔が立っていて、その左横には「古跡 牛之塔」と刻まれた石碑があり、それらの前には「史跡 牛之塔」と刻まれた標柱が立っていました。

 「古跡 牛之塔」の石碑には、その由緒が細かく刻まれていました。

 『藪塚村誌』や『上野國誌』などからの伝承的記述を引用したものです。

 岡田幸夫さんは『崋山と歩く桐生と周辺の旅』で、「牛の塔」について以下のように記されています。

 京の法然上人のもとで仏門修行をしていた智明(ちみょう)という僧が、得道して阿弥陀像を授かり、故郷の桐生小倉(川内村)へ帰ることになった。尊像を乗せた牛を引いてはるばると歩いてきたが、後一歩という所で牛は倒れて息を引き取った。僧は懇ろに埋葬し、石塔を建て供養した。これが牛の塔であり、阿弥陀如来の像は川内の宗禅寺に安置されている。

 『渡辺崋山集 第2巻』の頭注では、「法筐印塔」(ほうきょういんとう)であり、「小倉山の園田成家が法然のもとで出家し…」となっています。

 ということは、鎌倉時代の法筐印塔ということになり、この「牛の塔」の前を走っている道は、すでに鎌倉時代からある、この地方の幹線道路の一つであったということになります。

 崋山はその「牛の塔」を、正面やや左側から正確にスケッチしています。

 その「牛の塔」の前の道を、旧道(すなわち崋山が歩いた道)と判断して、「牛の塔」の前を出発したのが11:52でした。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・『崋山と歩く桐生と周辺の旅』(渡辺崋山と歩く会 岡田幸夫代表)



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