鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その2

2013-12-03 05:22:57 | Weblog

 「雨水幹線吐口」のトンネルから小川のように渡良瀬川の河原へと流れが延びて、先の方で渡良瀬川に合流しています。

 その先に中州のような陸地があって、そのさらに向こうの対岸に、浄水場の円筒形の給水塔と思われる建築物が白く見えています。

 先ほど通ってきた道筋から考えれば、その浄水場の右側には総合運動公園があり、またその総合運動公園の右側には桐生市立商業高等学校があるはずですが、ここからはそれらの建物はほとんど見えません。

 このあたりが渡し場なり旧赤岩橋があったところであることはほぼ確実であり、おそらく浄水場の西側の河原から渡し舟がこちらの河原へとつながり、また旧赤岩橋もその浄水場下の河原からこちらの河原へと架かっていたものと思われます。

 元宿からは、途中、浄水場の敷地および施設に遮られて、崋山のコースをたどることはできず、私が歩いたように桐生大橋を渡ってこの地点まで迂回することになります。

 そこからコンクリートの階段を上って、一般道を突っ切り、「スナック ハニー」の前を通って、先ほど歩いて来た道を引き返しました。

 左手に大きな工場や「ヤオコー」の店舗を金網フェンス越しに眺めながらその通りを進み、右折すればJR両毛線下新田(しもしんでん)駅に至る大きな通り(国道122号線)を渡って、そのまま直進。

 左手にNTT東日本群馬支店(NTT桐生〔相生〕)の建物を見て、その道を進んで行くと、まもなく東武桐生線の線路へとぶつかりました。

 線路は土手のような土盛りの上を走っているため、そこから先へは進めず、やむなく左折して、しばらくして「桜塚」という「おりひめバス」のバス停に出ましたが、それは「桐生大橋」から続いている道でした。

 そこで、さらにその道を西(正確には西南方向)へと進むと、桐生競艇場の「東貯水池」の土手のようなところにぶつかったので、そこで左折。

 途中で左折して、広い通りを進み「相生1丁目」のバス停のところを通過したのが9:38でした。

 崋山は、元宿から下って渡良瀬川に架かる赤岩橋を渡り、新田宿(しんでんじゅく)→足仲村(あしなかむら)→阿左美(あざみ)→生品(いくしな)の森へと歩いています。

 足仲村と阿左美との間には、現在桐生競艇場があり、崋山が歩いた道筋はそのままでは残っていないように思われました。

 「相生町1丁目」交差点のところで右折して国道122号線を進み、「浄土宗如来山光明院報身寺」を左手に見て、「広沢町1丁目」交差点で右折。

 県道68号線(桐生伊勢崎線)を進み、東武桐生線の踏切を渡って、ところどころ脇道に入り込みながら、東武桐生線の阿左美(あざみ)駅前に出たのが10:28でした。

 阿左美駅前の観光マップを見てみると、現在地(つまり阿左美駅)の東南に見える山は「荒神山」で、東武桐生線は南へと進めば太田へと至っています。

 現在地の北方向には、池が2つあって、「阿左美沼」「桐生競艇」と記されています。

 阿左美から藪塚(やぶづか)へと向かった崋山が、まず進行方向左手近くに見た山は、この「荒神山」であったはずです。

 おそらく崋山が、道中見えた山として書き留めている「広沢山」とは、この「荒神山」を指していたものと思われます。

 その荒神山を左手に見ながら通りを進んで行くと、まもなくその荒神山の山すそに、かなり広い神社の杜(もり)のようなものが見えたので、途中で左折して、その杜の方へと向かっていきました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

 



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