鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 銚子海岸遊覧 その5

2012-01-14 05:35:15 | Weblog
「港町銚子の機能とその変容」によれば、明治22年(1889年)に市町村制が施行されるまで、「銚子」とは町村名ではなく通称地名でした。「銚子」の町場を形成していたのは、飯沼・新生・荒野・今宮の4ヶ村が中心でしたが、それ以外の村々も、港町としての機能の一部を担っていました。幕末には、本城(ほんじょう)村から飯沼村の飯貝根(いがいね)浦まで町屋が一里半ほど連続していたといい、今宮村の西側に位置した松本・本城・長塚・松岸の4ヶ村も、港の機能の一部を担っていたことが想定されるとのこと。松岸村は高崎藩領ではなく旗本朝倉領であり、「木下茶船」は、銚子磯めぐりの際には松岸の上州屋長兵衛を指定宿としていました。「木下茶船」は銚子までやってきていることがわかります。長塚村は街道に沿った街村で、村の西端に入江があって、そこは高瀬船や伝馬船が風波を避けるために設けられた停泊地であり、入江付近には旅籠屋・茶漬屋・煮売屋などがありました。本城村から以東は飯貝根まで街道に沿って町屋が連続していました。本城村の利根川岸は、東北地方から入港する二百石積や五百石積といった大型船の多くが錨を下ろしたところであり、正徳3年(1713年)には、飯沼村笠上にあった遊女屋がここに移転したとのこと。松本村は旗本大村領で、かつては鰯を捕る漁村集落であったのが、幕末には猪牙船による物資輸送に従事する人々が多くなったようです。 . . . 本文を読む

2011.冬の取材旅行 銚子海岸遊覧 その4

2012-01-13 05:45:35 | Weblog
 銚子市の公正図書館や旭市の県立東部図書館の一般書では、幕末の銚子について詳しいところはよくわかりませんでしたが、この論文によりかなり詳しいことを知ることができました。しかも、この論文には「荒野地区を中心として」と副題にあるように、行方屋大里庄次郎の商家があった荒野村のことが中心に論じられています。それによると「銚子」の町場を形成していたのは、利根川の河口側から見ると、順に飯沼・新生(あらおい)・荒野(こうや)・今宮の4ヶ村を中心とした村々でした。新生村と荒野村の間には小さな川があり、その川を「滑川」という。飯沼村は飯沼観音下に位置し、名主を務めた「ヒゲタ醤油」で有名な田中玄蕃家があり、また高崎藩の飯沼陣屋がある。新生村は飯沼観音から西へ続く通りに展開する村で、その西端に「滑川」が流れている。荒野村は「御穀宿(おんこくやど)」や「気仙問屋(けせんどんや)」、仲買商、醤油醸造業などの商家が集中している「銚子第一之町」でした。今宮村は西端に「唐子船入場」と称する入江があり、そこは川船の避難港として賑わっていたところでした。この今宮村は荒野村に次ぐ町屋であったようだ。荒野村の行方屋大里庄次郎(桂麿)の屋敷地は、現在大里庄治郎商店となっていて、現住所は銚子市中央町。「ココロード」の西に続く「マイロード」に面してありますが、この沿道の町並みがかつての「通明神町(とおりみょうじんちょう)」と重なり、白幡神社もその通りに面しています。 . . . 本文を読む

2011.冬の取材旅行 銚子海岸遊覧 その3

2012-01-11 06:12:34 | Weblog
では、行方屋大里庄次郎の屋敷(商家)は銚子の町中のどこにあったのか。それがわかるのがまず「刀祢河游記」の語句の注釈であり、「この里に名おへる一場のすき人にて、名を桂麿といふ」とあり、「この里」とは、「下総国海上郡荒野(こうや)村」とあります。崋山が宿泊していたところに桂麿が訪ねてきて、やがて二人は、「くはうやというちまたにいたり」、小林蓮堂(崋山の「四州真景」の旅の道連れの一人)を訪ねます。この「くはうや」というのは「荒野」のこと。というふうに考えると、桂麿は別宅のようなものを持っていて、そこに崋山を泊まらせていたように思われる。そこは「松のかげさしのぼれば窓ちかうおしよりて、唯ふるさとの空なつかしき」とあるように、桂麿の家からやや離れた松林の中にあったのかも知れない。では、桂麿の家は、荒野村のどこにあったのか。これについては、越川さんが教えてくれた資料により、詳しいことがわかりました。それは筑波大学歴史地理学研究室の『歴史地理学調査報告 第8号』所収の「港町銚子の機能とその変容─荒野地区を中心として─」(舩杉力修・渡辺康代)という論文でした。それによれば、大里家は白幡神社前の通り、「通明神町(とおりみょうじんちょう)」の南側にあり、その通り向かい側には醤油醸造業で有名な「濱口儀兵衛」の大きな商店および醸造工場がありました。 . . . 本文を読む

2011.冬の取材旅行 銚子海岸遊覧 その2

2012-01-10 05:48:30 | Weblog
小林一茶は、文化14年(1814年)の5月28日(旧暦)、銚子の行方(なめかた)屋大里庄次郎(桂麿)を訪ね、翌日29日には、桂麿の案内で外川に赴いています。また6月1日には、一茶は桂麿や李峰とともに浄国寺(大里家の菩提寺)を訪れ、その西側にあった「望西台」の「日観亭」という庵で休んでいます。ここからは、眼下に銚子の町並みや悠々たる利根川の流れ、利根川対岸の波崎方面を眺めることができました。崋山は当時、画家として江戸ではそれなりに知られた人物であったから、大里庄次郎は一茶同様「賓客」としてもてなしたものと思われます。まずは一茶の時と同様に崋山一行を「銚子の磯めぐり」に誘い、そして自ら案内したのではなかったか。その下検分の後、崋山は今度はゆっくりと写生(スケッチ)のための「磯めぐり」に出掛けたのではないか。つまり、崋山は2回ないしそれ以上、天気を見計らって、「磯めぐり」のスケッチに出掛けているのではないか、と私は推測しています。 . . . 本文を読む

2011.冬の取材旅行 銚子海岸遊覧 その1

2012-01-09 07:33:16 | Weblog
「銚子の磯めぐり」のお決まりコースというものは、当時、あったのだろうか。参考になるのは宮負定雄(やすお)の『下総名勝図絵』と、赤松宗旦の『利根川図志』。『下総名勝図絵』は天保年間(1830~1843)頃に描かれたものであり、『利根川図志』は、弘化2年(1845年)に刊行されているから、崋山が銚子を訪れた文政8年(1825年)よりも後のものですが、この両書を併せ読んでみると、お決まりコースというものがあったことがわかります。それは次の通り。飯沼観音→和田不動→川口明神→川口→千人塚→夫婦ヶ鼻→黒生(くろはえ)の浦→大墳→霧ヶ浜→犬吠埼胎内巡り→砥石山→仏が浦→長崎鼻→外川の浦→犬若島→名洗の浜→不動尊(不動山)。宮負定雄は、川口から小畑の古池までを「磯めぐりの見所といふなり」と記しています。さらに足を延ばせば、上永井村の通連房という浜や、下永井村の妙見宮からの眺めもすばらしいものだと記しています。赤松宗旦の場合は、飯沼観音前からのコースを「銚子浜磯巡の図」で描いており、名洗の浜で「磯めぐり」のコースは終わるとしており、一般的には、川口から右回り(時計回り)に海岸を名洗の浜まで歩き、そこから丘陵を越えて銚子へ戻ってくるのが定番コースであったことがわかります。大体一日コースであり、途中、名勝地にある茶屋などで休憩や昼食を摂りながらの日帰りの「磯めぐり」であったと思われます。 . . . 本文を読む

2011.冬の取材旅行 房総のむら~銚子海鹿島 その7

2012-01-08 07:03:12 | Weblog
文政8年(1825年)の前年、関東地方の太平洋岸における大きな事件として、「異国人」の大津浜上陸事件というのがありました。文政7年(1824年)の5月28日(旧暦)、2艘の「異国船」から鉄砲を持った11名の乗組員が、2隻の小舟に分乗して大津浜(富岡海岸)に上陸したというもの。水戸藩からも緊急に兵が送られ、派遣された幕府代官らによって取り調べが行われたことにより、船内に病人が出たため野菜等の補給するための上陸とわかり、6月10日に薪水・食糧等を与えて退去させたというもの。この「異国船」は、取り調べの結果、イギリスの捕鯨船であることが判明する。この「異国人」の上陸事件が、水戸藩や幕府などに与えた影響は大きく、水戸藩の会沢正志斎がその翌文政8年に『新論』を書き上げるなど、「尊王攘夷論」が沸き起こるきっかけとなりました。また同じ翌文政8年2月18日に幕府によって「無二念打払令」(異国船を見付けしだい、躊躇なく打ち払うように)が出されますが、これもこの事件を直接的なきっかけとしていました。江戸の知識人やあるいは利根川水系の水運に関わる人々が、この事件に無関心だったとは到底考えられない。江戸や北関東、そして東北地方と、高瀬船や廻船などによって緊密に関わる銚子の商人や船頭たちはなおさらであったと思われる。崋山は、この「四州真景」の旅の途上、潮来の宮本茶村(尚一郎)から、漂流していた大坂の菱垣廻船の乗員らが、アメリカの捕鯨船に救助され、小名浜沖で操業していた重吉船に引き渡された(文政8年4月のこと)という最新情報を入手していますが、崋山においても、旅立つ前年に起きたこの「異国人」大津浜上陸事件は、大きな関心事であったと思われます。 . . . 本文を読む

2011.冬の取材旅行 房総のむら~銚子海鹿島 その6

2012-01-07 05:21:09 | Weblog
かつて銚子の人々は「観音様、妙見様、玄蕃様」と言って、「様」を付けて呼ぶのは三つしかなかったという。「観音様」は飯沼観音のこと、「妙見様」は妙見宮妙福寺のことで、「玄蕃様」とは、ヒゲタ醤油の田中玄蕃(げんば)のこと。この田中玄蕃家の10代当主から明治初年の12代当主まで3代にわたって書き継がれてきた日記があり、それは『玄蕃日記』として銚子市指定有形文化財になっています。文化9年(1812年)から明治5年(1872年)まで61年に及ぶという。この日記を書き始めた10代当主は名を貞矩(さだのり)といい、1778年生まれで1849年没。崋山が銚子を訪ねた時には48歳の壮年。この『玄蕃日記』が筆写され活字化されたものは千葉市公正図書館にあり、この日記の文政8年(1825年)の部分から、崋山が銚子に滞在したその年7月の銚子の天気を知ることができました。それは次の通り。3日(崋山到着日)曇天、4日曇天後に快晴、5日快晴、6日快晴、7日(七夕)雨天、8日曇晴午後より快晴、9日雨天、10日曇天、11日快晴残暑、12日快晴残暑、13日快晴残暑、14日曇天微雨少々、15日(崋山、大里とともに月見のための川遊びをする)曇晴、16日曇天北風冷気夜分降雨、17日快晴、18日雨天、19日曇天雨天少々雷鳴…。銚子海岸のスケッチ旅行を決行するとすれば、やはり天気がよい時であったはずであり、5~6日、11~13日あたりが崋山が出掛けた日ではないかという推測が成り立ってきます。 . . . 本文を読む

2011.冬の取材旅行 房総のむら~銚子海鹿島 その5

2012-01-06 06:08:10 | Weblog
 銚子荒野村の大里庄次郎(桂麿)家に逗留したものと思われる崋山は、その庄次郎およびその周辺の人々(銚子の人々)と交流を持ったと思われますが、その詳しいことは、その半月ばかりの期間の記録が「刀祢河游記」を除いて全く残されていないので、何もわかりません。崋山が大里家の中にじっとしていたなどということは想像できないので、庄次郎らの案内で銚子の港や河岸を見て回ったり、ひとかどの人々と酒を飲んで情報交換をしたり、町中の神社やお寺を見て回ったりしたものと思われます。では、銚子海岸の磯めぐりは誰と出掛けたのだろう。道案内の者は誰かいたものと思われますが、それは大里庄次郎だったのだろうか。それとも別の人だったのだろうか。『四州真景図』の絵の順番は、「新町大手、町奉行やしき」→「川口、鵜ノ糞石」→「霧ヶ浜ヨリ海鹿島ヲ見ル、アシカ」→「和田不動道より海ヲ見ル」→「穴ヶ崎」→「(無題)〔屏風ヶ浦か〕」→「長崎」→「(無題)〔屏風ヶ浦か〕→「犬吠埼、胎内潜、伊勢路浦」→「浦中」→「黒生」→「クロハエ小湊」というもの。絵の順番はこうですが、そのそれぞれの場所からして、この順番で崋山が歩いたものとは思われない。何回かに分けて崋山はスケッチ旅行をしたのではないかと思われます。 . . . 本文を読む

2011.冬の取材旅行 房総のむら~銚子海鹿島 その4

2012-01-05 06:23:10 | Weblog
崋山が「四州真景」の旅に出立したのは、文政8年(1825年)の6月29日(旧暦)。その日、宿泊したのは白井(しろい)宿の「藤屋八右衛門」。明けて7月1日に宿泊したのは津宮(つのみや)河岸の「佐原屋」。そして7月2日が潮来の「いづみや泉助」。銚子到着は7月3日のこと。ということは江戸から3泊4日の行程であったことになります。7月3日の到着は、あらかじめ銚子の行方(なめかた)屋大里庄次郎に知らせてあったものと、私は推測しています。もともとは崋山一行は、木下(きおろし)から「木下茶船」に乗り、香取神宮→息栖神社→鹿島神宮(東国三社)を回って、鹿島神宮あたりで一泊してから銚子へ向かう予定であったに違いない。その予定コースが大きく変更したのは、津宮の久保木清淵から潮来五丁目の宮本尚一郎(茶村)の存在を教えられたから。予定を変更して「さっぱ舟」で潮来へ向かい、潮来五丁目の宮本家に赴いて尚一郎と会って話がはずみ、また海雲山長勝寺や潮来花柳を訪ねたために、その日はそのまま潮来(前川べりの「泉屋」)に宿泊。翌日は「さっぱ舟」で前川を進んで「浪逆浦(なさかうら)」に出たものの、鹿島神宮や息栖神社などにゆっくりと立ち寄る時間的余裕はすでになく、そのまま利根川本流に出て銚子へと急いだ、というのが私の推測。では、その銚子に崋山はいつ頃まで滞在していたのだろう。そこで参考になるのが、「刀祢河游記(とねがわゆうき)」。これによると崋山は、大里庄次郎(桂麿)や小林蓮堂とともに、利根川に川舟を出して、お盆の夜の月見を楽しんでいるから、7月15日(旧暦)まで銚子に滞在していたことは確実。ということは、少なくとも銚子滞在は13日間にわたる。おそらくこの13日の銚子滞在の間に、崋山は川口(利根川河口部)から黒生(くろはえ)→霧ヶ浜(君ヶ浜)→犬吠埼→長崎鼻→外川を経て屏風ヶ浦に至る、太平洋に面した波打ち寄せる海岸線を歩き、興趣ある景色を前にして立ち止まり、写生にいそしんだものと思われます。 . . . 本文を読む

2011.冬の取材旅行 房総のむら~銚子海鹿島 その3

2012-01-04 07:31:54 | Weblog
小網町三丁目の行徳河岸から「行徳船」で下総の行徳までは予定の行路。行徳から八幡(やわた)を経て木下(きおろし)街道へ入ったのも予定通り。しかし下総台地を下りながら手賀沼やその手前に広がる新田を眺めた時、亀成川に架かる橋あたりで崋山は「さっぱ船」を借り、手賀沼へと漕ぎ出す。遠回りをしたために利根川筋の木下(きおろし)到着は遅れ、木下河岸から「木下茶船」を借りて利根川に出たものの、神崎(こうざき)明神に立ち寄ったこともあって、津宮(つのみや)河岸到着は深更になってしまう。この道中かあるいは津宮河岸の「佐原屋」において、崋山は近くに居住する久保木太郎右衛門(清淵)という碩学の名前を知る。その久保木清淵を訪ねた崋山は、清淵から潮来五丁目に居住する宮本尚一郎(茶村)という若いが(崋山と同い年)将来が嘱望される人物を紹介され、予定を変更して潮来へと足を向ける。潮来に一泊し、宮本茶村と長い時間を過ごした崋山は、前川から浪逆浦(なさかうら)へ出たものの、銚子へ予定通りに到着するため、鹿島神宮や息栖神社には立ち寄らずに、常陸利根川から利根川本流に入り、予定日通りに銚子へ至った、というのが私の推測です。長々と下総台地上を歩いてきて、浦部あたりの下り坂から、目の前に広々と広がる水田や手賀沼を眺めた時の印象は、崋山においてもよほど印象深いものではなかったか、というのが実際歩いてみての私の感想でした。また「さっぱ舟」で進む手賀沼や潮来周辺の新田地帯の広がりや水郷の景観も、崋山にとって印象深いものであったに違いない。椎名内村の弥右衛門、津宮の久保木清淵、そして潮来の宮本茶村との出会いも、崋山にとってこの旅の大きな収穫となるものでした。 . . . 本文を読む

2011.冬の取材旅行 房総のむら~銚子海鹿島 その2

2012-01-03 07:15:14 | Weblog
「四州真景図」に納められている風景画は、「中川御番所」から始まって全部で30枚。そのうち銚子および銚子の海岸を描いたものは、「松岸より銚子を見る図」から始まって14枚。つまり半分近くを銚子関係のものが占めています。「松岸より銚子を見る図」や「常陸波崎ヨリ銚子ヲ見ル」図は、前に触れたように銚子の町全体を利根川越しに眺めたパノラマ写真のようなものであり、崋山が相当に力を込めて、港町および河岸町としての銚子の外観およびその繁栄ぶりを描こうとしたもの。「新町大手、町奉行やしき」は高崎藩飯沼陣屋の門前を描いたもので、町中を描いた唯一のもの。あとはすべて銚子海岸(川口の鵜ノ糞石から犬吠埼を経て屏風ヶ浦あたりまで)の風景を描いたもの。ある一地区において、崋山がこれだけ多数の(14枚!)風景画を残しているというのは、この銚子およびその周辺だけではないだろうか。これはたまたま崋山が銚子に立ち寄って、その景観に感動して描いたというよりも、旅立つ前から銚子の海岸の様子を聞いていて(江戸の人々で「銚子遊覧」をした人はあちこちにいただろう)、それを描きたいがために、崋山は銚子を目指したのであり、その途中でついでながら「東国三社詣で」もしてみよう、といったところではなかったか。しかしその過程で、崋山は興味・関心の赴くまま、出会った人たちからの情報で、予定していたコースをやや離れて寄り道をし、またひとかどの人物を訪ね、その人物たちから貴重な情報を入手してもいたのです。彼は、人と出会い、人から有益な情報を入手することも、旅の大きな楽しみとする人であったのでしょう。 . . . 本文を読む

2011.冬の取材旅行 房総のむら~銚子海鹿島 その1

2012-01-02 06:32:49 | Weblog
銚子へは一昨年(2010年)の冬、銚子市立図書館(公正図書館)で関連図書を調べるのを目的として訪れたことがありますが、その時は、犬吠埼や飯沼観音、銚子港や高崎藩陣屋跡などを歩いたばかりで、崋山が「四州真景図」で描いた海岸線を見て歩いたわけではありませんでした。崋山は荒野村の行方屋(なめかたや)大里庄次郎宅におそらく滞在し、銚子の太平洋に面した海岸の風景を、海岸線を歩きながらスケッチしていったわけですが、当時の江戸の人々が「東国三社詣で」(香取・鹿島・息栖の三社詣で)を経て、さらに銚子まで足を延ばす場合、その目的は「銚子遊覧」といって、太平洋に面した銚子の荒々しい海岸線(犬吠埼や屏風ヶ浦など)を見て回ることにありました。私は、崋山のこの「四州真景」の旅の最大の目的は、この「銚子遊覧」(そしてその海岸の風景を描くこと)にあったのではないかと考えているのですが、私自身はまだその風景を部分的にしか見ていませんでした。ということで、崋山の旅のルートを東京から銚子まで歩き終えた上で、崋山が描いた銚子の海岸風景を自分の目で見てみたいと思っていました。また、銚子と崋山に関するさらに詳しい情報も入手したいと考え、2011年冬の取材旅行は、再び銚子へと向かうことにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む