鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 「富津市 浄信寺の忠魂碑」 その4

2012-01-24 06:15:29 | Weblog
『渡辺崋山集 第1巻』の解説によると、『刀祢河游記』は、旅から帰った崋山が、その利根川上に舟を浮かべて観月をした日(7月15日)からちょうど1ヶ月後の仲秋(8月15日)の夜、稿本をもとに一巻に仕立て上げ、それを銚子の大里庄次郎(桂麿)に贈ったものでした。これは大切に大里家に保管されてきて、これが「大里本」であったわけですが、この「大里本は太平洋戦争時の銚子空襲で焼失」してしまいました。このことについては、やはり越川さんから頂いた『東日本新聞』第1198号の「崋山の『刀禰遊記』直撃弾受け焼失 平凡社の調査で判明」という記事のコピーに、「大里庄治部(「郎」の誤り─鮎川)氏の話」として、やや詳しく載っています。それは以下の通り。「『利根川遊記』は、タテ九寸七分長さ二間位で、『崋山展』の時、私が父に代つて美術倶楽部へ持参したので覚えています。戦災の時、蔵へ直撃弾を受け『図譜』(『渡辺崋山先生錦心図譜』上下二巻のこと─鮎川)だけを残して焼失したことは惜しいことだと思つています。」蔵に大事に保管されていたものの、その蔵に直撃弾を受けて焼失してしまったというのです。この『刀祢河游記』の「大里本」が保管されていた蔵は、「港町銚子の機能とその変容」という論文の中の第6図、「明治26年(1893)における大里庄治郎商店」に描かれており、おそらくその左端の黒瓦葺き白壁の大きな土蔵がそれであったでしょう。銚子がアメリカ軍戦略爆撃機B29などによって大規模な空襲を受けたのは、昭和20年(1945年)の3月10日と7月19日のことでした。 . . . 本文を読む