鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 房総のむら~銚子海鹿島 その7

2012-01-08 07:03:12 | Weblog
文政8年(1825年)の前年、関東地方の太平洋岸における大きな事件として、「異国人」の大津浜上陸事件というのがありました。文政7年(1824年)の5月28日(旧暦)、2艘の「異国船」から鉄砲を持った11名の乗組員が、2隻の小舟に分乗して大津浜(富岡海岸)に上陸したというもの。水戸藩からも緊急に兵が送られ、派遣された幕府代官らによって取り調べが行われたことにより、船内に病人が出たため野菜等の補給するための上陸とわかり、6月10日に薪水・食糧等を与えて退去させたというもの。この「異国船」は、取り調べの結果、イギリスの捕鯨船であることが判明する。この「異国人」の上陸事件が、水戸藩や幕府などに与えた影響は大きく、水戸藩の会沢正志斎がその翌文政8年に『新論』を書き上げるなど、「尊王攘夷論」が沸き起こるきっかけとなりました。また同じ翌文政8年2月18日に幕府によって「無二念打払令」(異国船を見付けしだい、躊躇なく打ち払うように)が出されますが、これもこの事件を直接的なきっかけとしていました。江戸の知識人やあるいは利根川水系の水運に関わる人々が、この事件に無関心だったとは到底考えられない。江戸や北関東、そして東北地方と、高瀬船や廻船などによって緊密に関わる銚子の商人や船頭たちはなおさらであったと思われる。崋山は、この「四州真景」の旅の途上、潮来の宮本茶村(尚一郎)から、漂流していた大坂の菱垣廻船の乗員らが、アメリカの捕鯨船に救助され、小名浜沖で操業していた重吉船に引き渡された(文政8年4月のこと)という最新情報を入手していますが、崋山においても、旅立つ前年に起きたこの「異国人」大津浜上陸事件は、大きな関心事であったと思われます。 . . . 本文を読む