鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 「外川・松岸・波崎・高田・犬吠埼」 その4

2012-01-19 05:32:11 | Weblog
崋山の「常陸波崎ヨリ銚子ヲ見ル」図を、今までの「港町銚子の機能」の理解の上に見ていくことにしたい。まずこの絵でポイントとなるのは、対岸の町中にある飯沼観音の本堂の大きな屋根と、その右側にある二瘤(ふたこぶ)の小高い山。この山は、銚子が空襲で焼け野原になった時、市内のどこからでも見えたという御前鬼山(ごぜんきやま)。飯沼観音から利根川河口部にかけての家並みは、村名で言うと「飯沼村」となり、ここには「ヒゲタ」の田中玄蕃家や高崎藩飯沼陣屋があり、河口部の川岸に漁師の家が密集しているところでもある。飯沼観音から「利根川高瀬船」が密集して碇泊しているところ(これがこの絵の2つ目のポイント)の左端あたりまでが「新生(あらおい)村」で、「利根川高瀬船」が密集しているところの向こう側の町並みが「荒野(こうや)村」。ここに行方屋大里家などの「御穀宿」や「気仙問屋」などが集中し、「ヤマサ」の広屋(浜口)儀兵衛などの大手造醤油屋がある。その「利根川高瀬船」の船溜りから右側が「今宮村」で、この村は街道に沿って続く「街村」。荒野村や今宮村の背後に見える台地には大里家の菩提寺である浄国寺があり、その西端には一茶も訪れたという「望西台」があり、そこにあった「日観亭」からは利根川の流れや遠く富士山・筑波山が見えたという。その台地が途切れているところ(その上に「日観亭」がある)の下には清水川という小川が流れているはず。というふうに見ていくと、崋山はこの絵で、飯沼村の利根川河口部の飯貝根(いがいね・漁業集落)から今宮村までの、銚子を構成する主要4ヶ村を描いていることになり、利根川岸や銚子街道に沿って一里以上にわたって長々と連なる町屋全体を描いたことになります。飯沼観音を中心とする左右の町屋(飯沼村と新生村)と、「利根川高瀬船」が密集する荒野村など、それぞれの村の景観の違いが的確に描かれているのが印象的です。 . . . 本文を読む