崋山が、銚子の長々と続く町並みの景観を絵としてまとめたものが、「常陸波崎ヨリ銚子ヲ見ル」図や「松岸より銚子を見る図」であるとすれば、崋山が、銚子の町の景観を文章としてまとめた唯一のものが、「刀祢河游記(とねがわゆうき)」と言っていい。文政8年(1825年)の7月のある日の夜、崋山が滞在している庵(大里家の別宅か)に主人の大里庄次郎(桂麿)が訪ねてきて、やがて崋山はその桂麿の誘いで、利根川に舟を浮かべて酒を飲みながらの月見に興ずることになります。浮かべた舟からは対岸に「波崎」(はさき)の集落が見えました。しかしその西方の「本郷」「海老台」あたりは霧が立ち込めているためにまったく見えない。自分が滞在している銚子の町の方を振り返ってみると、利根川にせり出すようにおびただしい数の人家が建ち並び、川岸には「風のこの葉の集るが如」く船が密集しています。人家の屋根は「蠣殻」で葺いてあるために「吹雪の積れる」ように白く見える。「前鬼山(ぜんきやま)」は黒く繁り、「和田山」は横にそのなだらかな稜線を見せています。飯沼村の「田場」や「飯貝」(飯貝根)あたりでは漁をする漁師たちの声が聞こえ、そこでは「千人塚」のかがり火が赤々と燃えています。利根川河口へ舟を漕ぎ出した時、まずそこから見えた月明かりに浮かぶまわりの景観は、以上のようなものであったのです。 . . . 本文を読む