鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 房総のむら~銚子海鹿島 その3

2012-01-04 07:31:54 | Weblog
小網町三丁目の行徳河岸から「行徳船」で下総の行徳までは予定の行路。行徳から八幡(やわた)を経て木下(きおろし)街道へ入ったのも予定通り。しかし下総台地を下りながら手賀沼やその手前に広がる新田を眺めた時、亀成川に架かる橋あたりで崋山は「さっぱ船」を借り、手賀沼へと漕ぎ出す。遠回りをしたために利根川筋の木下(きおろし)到着は遅れ、木下河岸から「木下茶船」を借りて利根川に出たものの、神崎(こうざき)明神に立ち寄ったこともあって、津宮(つのみや)河岸到着は深更になってしまう。この道中かあるいは津宮河岸の「佐原屋」において、崋山は近くに居住する久保木太郎右衛門(清淵)という碩学の名前を知る。その久保木清淵を訪ねた崋山は、清淵から潮来五丁目に居住する宮本尚一郎(茶村)という若いが(崋山と同い年)将来が嘱望される人物を紹介され、予定を変更して潮来へと足を向ける。潮来に一泊し、宮本茶村と長い時間を過ごした崋山は、前川から浪逆浦(なさかうら)へ出たものの、銚子へ予定通りに到着するため、鹿島神宮や息栖神社には立ち寄らずに、常陸利根川から利根川本流に入り、予定日通りに銚子へ至った、というのが私の推測です。長々と下総台地上を歩いてきて、浦部あたりの下り坂から、目の前に広々と広がる水田や手賀沼を眺めた時の印象は、崋山においてもよほど印象深いものではなかったか、というのが実際歩いてみての私の感想でした。また「さっぱ舟」で進む手賀沼や潮来周辺の新田地帯の広がりや水郷の景観も、崋山にとって印象深いものであったに違いない。椎名内村の弥右衛門、津宮の久保木清淵、そして潮来の宮本茶村との出会いも、崋山にとってこの旅の大きな収穫となるものでした。 . . . 本文を読む