銚子湊で大型川船(利根川高瀬船)に積み替えられて(あるいは積み込まれて)江戸に運ばれたものは、東北地方太平洋側の諸藩や幕府領の年貢米、鯡数子・鮭(松前産)・鰹節・魚油・昆布(仙台・南部産)などの海産物、干鰯・鰯〆粕などの金肥、蔵出しされた醤油樽などでした。銚子を代表する醤油の二大メーカーは、「ヒゲタの左大臣、ヤマサの右大臣」と言われたように、「ヒゲタ」(田中玄蕃)と「ヤマサ」(浜口儀兵衛)であり、田中家は飯沼村に所在していましたが、浜口家は荒野村に所在し、その場所は行方屋大里庄次郎家の通りを隔てた真向いでした。広屋(浜口)儀兵衛の初代は元禄6年(1693年)に紀州広村から銚子に移住し、元禄13年(1700年)に荒野村で醤油店を開き、享保13年(1728年)頃には江戸日本橋小網町に支店を設けて、江戸積醤油の荷捌きと明樽や赤穂塩の仕入業務を行わせていました。そして「ヤマサ」は寛政・文化期には江戸売によって急速に経営を拡大していきました。醤油を江戸に運んだ利根川高瀬船の「戻り荷」は、関西から運ばれてきた赤穂塩であり、また関東各地で生産された小麦であったでしょう。それらさまざまな物資の流通や運搬ルートなどについても、半月ほどの銚子滞在中、崋山は詳しく知ったのではないか。 . . . 本文を読む