鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 房総のむら~銚子海鹿島 その6

2012-01-07 05:21:09 | Weblog
かつて銚子の人々は「観音様、妙見様、玄蕃様」と言って、「様」を付けて呼ぶのは三つしかなかったという。「観音様」は飯沼観音のこと、「妙見様」は妙見宮妙福寺のことで、「玄蕃様」とは、ヒゲタ醤油の田中玄蕃(げんば)のこと。この田中玄蕃家の10代当主から明治初年の12代当主まで3代にわたって書き継がれてきた日記があり、それは『玄蕃日記』として銚子市指定有形文化財になっています。文化9年(1812年)から明治5年(1872年)まで61年に及ぶという。この日記を書き始めた10代当主は名を貞矩(さだのり)といい、1778年生まれで1849年没。崋山が銚子を訪ねた時には48歳の壮年。この『玄蕃日記』が筆写され活字化されたものは千葉市公正図書館にあり、この日記の文政8年(1825年)の部分から、崋山が銚子に滞在したその年7月の銚子の天気を知ることができました。それは次の通り。3日(崋山到着日)曇天、4日曇天後に快晴、5日快晴、6日快晴、7日(七夕)雨天、8日曇晴午後より快晴、9日雨天、10日曇天、11日快晴残暑、12日快晴残暑、13日快晴残暑、14日曇天微雨少々、15日(崋山、大里とともに月見のための川遊びをする)曇晴、16日曇天北風冷気夜分降雨、17日快晴、18日雨天、19日曇天雨天少々雷鳴…。銚子海岸のスケッチ旅行を決行するとすれば、やはり天気がよい時であったはずであり、5~6日、11~13日あたりが崋山が出掛けた日ではないかという推測が成り立ってきます。 . . . 本文を読む