鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山の銚子への旅 その2

2012-01-27 06:11:13 | Weblog
日本橋小網町の河岸から、日本橋川、隅田川、小名木川、新川、中川、江戸川へと進んでいった「行徳船」から、崋山が見たのは、夏の早朝、江戸へと向かう多くの荷舟であったと思われる。下総の行徳河岸に上陸して、八幡宿を経て鬼越から木下(きおろし)街道に入れば、その街道を往来する旅人や荷馬、荷車などに出逢っただろう。下総台地には広大な牧場が広がり、馬があちこちで草を食むその牧場の中を、木下街道が一本道になって延びていく。その下総台地から利根川筋へと下って行く時、視界いっぱいに広がった青々とした水田に崋山は目を瞠(みは)ったに違いない。それは手賀沼を干拓した新田の広がりであり、長々と台地上を歩いてきた崋山にとっておそらく新鮮な感動を覚えるものでした。サッパ舟に乗ってその水田地帯や手賀沼を遊覧して木下(きおろし)河岸に到着した崋山らは、そこから「木下茶船」に乗船し、利根川を津宮(つのみや)へと下っていくのですが、そこで崋山が目にしたものは帆を大きく張って利根川を往来する「利根川高瀬船」であり、また利根川筋各所にある河岸の賑わいでした。その河岸を中心とした堤防沿いに木立に囲まれた立派な人家が長々と並び、河岸の繁栄を示していました。神崎(こうざき)を経て津宮に上陸した崋山は、その地の名士である久保木清淵を訪ね、おそらくその久保木清淵から潮来の宮本茶村を紹介され、水郷地帯を抜けて潮来へと入ります。霞ヶ浦と常陸利根川(北利根川)を結ぶ前川には、荷船が往来してはいるものの、そのかっての水運の要衝地としての繁栄には翳(かげ)りが見え、有名な潮来の遊郭はあるものの、東北地方と江戸(および関東)を結ぶ水運上の要衝地は、利根川河口部の湊町銚子にすでに取って代わられていました。 . . . 本文を読む