鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 「外川・松岸・波崎・高田・犬吠埼」 その1

2012-01-16 05:58:26 | Weblog
行方屋(なめかたや)大里庄次郎(初代)が銚子の荒野村に移住してきたのは、常陸国行方郡島並村(現在の茨城県行方市島並)からでした。屋号の「行方屋」は、出身地である「行方郡」から来ているものと思われる。島並村は霞ヶ浦に面しており、大里庄次郎が出た大里家は、この霞ヶ浦沿岸の島並村で、水運関係の商売でもやっていたのではないだろうか。ここからは、牛堀や潮来(いたこ)を経て利根川へ出ることができたから、銚子や佐原、関宿や江戸方面とのつながりもあったに違いない。銚子から江戸までの利根川水運が完成するのが17世紀中頃で、それ以後、霞ヶ浦や北浦の水運の要衝地であった潮来(いたこ)から、利根川河口部の銚子へと、水運の中心地が大きく移動していくと、その形勢を見て銚子に活動の拠点を移したのではなかったか。機を見るに敏であったと言える。この銚子の行方屋大里家は、銚子に6軒あった「御穀宿(おんこくやど)」の一つでした。「御穀宿」とは、東北諸藩の廻米を取り扱うものをいい、諸藩から扶持を支給され、廻米の陸揚げや蔵への出し入れ、江戸への回漕、濡米の売り払いなどを担当していたという。行方屋の場合は、磐城平(たいら)藩や棚倉藩の廻米を取り扱っていました。つまり東北諸藩の年貢米の江戸への運送を担っていたのが「御穀宿」であったのであり、東北諸藩および江戸(そして関東)と海上交通および水上交通によって緊密なつながりをもっていた、銚子でもとりわけ有力な商家(水運業者)であったのです。 . . . 本文を読む