鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 銚子海岸遊覧 その4

2012-01-13 05:45:35 | Weblog
長崎鼻は、外川漁港からやや東へと走ったところにある長崎漁港から、東へと突き出した小さな岬で、「長崎」というように海に向かって陸地が長く突き出しており、突端近くには白い煙突のような長崎鼻灯台が立っています。さらにその突端から、岩礁が数珠繋ぎになって続いています。

 長崎海水浴場となっている砂浜から犬吠埼方面を眺めると、台地が海食されてできた断崖の上に犬吠埼灯台が白く見えました。

 崋山は「長崎」の絵を、断崖の上の方から南側を向いて描いており、その画面の右側に海岸部の大きな屈曲があり、しかも右端中央から下部にかけて草原のような丘陵が描かれていることから考えると、この絵は犬吠埼の上から描いたものと思われます。

 実際は、長崎鼻は、犬吠埼からこんなに近くには見えませんが、松岸や波崎から見た銚子の風景と同様、崋山はかなりクローズアップして描いています。

 そのようなことを推測しながら長崎海水浴場の砂浜を少し歩いてみると、「延宝地震の再来想定津波高」という看板を見つけました。

 この「延宝地震」とは、帰ってから調べてみると、延宝5年(1677年)10月9日(旧暦)に発生したマグニチュード8.0の地震で、それによって引き起こされた大津波により、房総半島を中心に東北地方にかけて大きな被害が生じました。大津波の高さは、大きいところでは10mほどもあったようです。

 『江戸東京年表』(小学館)には、その年のところに何の記載もありませんでした。

 この看板のあるところが標高何メートルかは正確にはわかりませんが、4mから5mほどはありそうです。

 犬吠埼には立ち寄らず、その向こうの君ヶ浜で休憩して、犬吠埼方面や丸山方面を眺めた後、丸山を越えたところで車を停め、丸山の岩壁にあるという「小川芋銭句碑」を捜してみました。

 「小川芋銭句碑」、「竹久夢二詩碑」、「尾崎咢堂歌碑」と3つの案内標示が重なっている立て札を見つけ、その「小川芋銭句碑」の標示に従って、丸山の方へと入って行くと、丸山下の廃墟化した木造建築の中を通過することになりました。

 この廃墟化した木造建築物は、近くの旅館の名前が書かれていて、「いけす料理」とあったから、その旅館の「いけす料理」を提供する建物であったようです。

 しかし長らく使われてはいないようであり、今にも崩れ落ちそう。

 そこを通過すると、「小川芋銭 句碑」の案内板が立っており、それによれば、芋銭は晩年、海鹿島の別荘「潮光庵」を借りて住み、「海島秋来(かいとうしゅうらい)」「雲巒烟水(うんらんえんすい)」「河童百図(かっぱひゃくず)」などの名作を描いたという。

 句碑に刻まれている文字は、

 「銚子灘朝暾 大海を 飛びいつる如と 初日の出  芋銭子」

 「朝暾」は「ちょうとん」と読む。

 句の意味は、「元旦の太陽が、大海から飛び出てくるように出て来た」というもの。

 銚子海岸の高台から、ある年の元旦、芋銭は、大海原の水平線上に展開される荘厳な「初日の出」の光景を眺めたのでしょう。

 その高台は、潮光庵の近くのこの丸山の上であったかも知れないし、犬吠埼の上であったかも知れない。あるいはまた潮光庵であったのかも知れない。

 その丸山の上に登ってみようと思いましたが、こちら側からは傾斜が急で登れそうになく、ややなだらかそうなところにはその丸山に食い込むように建っている鉄筋コンクリートの人家があって、その屋根の部分から上がれそうに思われましたが、人が上がれないように石垣が設けられていました。

 『利根川図志』の「銚子浦濱巡海獺嶋眺望の図」などを見ると、この丸山のふもとには茶屋のような茅葺きの小屋があり、道側からその丸山の上に登ることができるようになっています。その頂きでは二人が茣蓙(ござ)のようなものに座り、二人が立って海鹿島のアシカを眺めているのですが、その一人は遠眼鏡を覗いています。

 また、宮負定雄の『下総名勝図絵』においても、丸山の上に人が登り、その一人はやはり遠眼鏡を持って、海鹿島のアシカを眺めています。

 かつては、海鹿島に生息するアシカを見るために、丸山には誰でも容易に登ることができたのです。

 
 続く


○参考文献
・「港町銚子の機能とその変容─荒野地区を中心として─」
・『定本渡辺崋山』(郷土出版社)

 ※写真 「丸山より海鹿島を望む」


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