鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 「富津市 浄信寺の忠魂碑」 その1

2012-01-21 06:04:12 | Weblog
崋山・大里庄次郎(桂麿)・小林蓮堂の三人を乗せた舟は、一人の船頭がサオで漕ぐ。その図が「三人乗船の図」。「桂麿、登、蓮堂三人歩行の図」と併せて見てみると、舟の舳先に座って崋山と蓮堂の二人の方を向いているのがおそらく桂麿で、中央が崋山、その右手前に背中を丸めて座っているのが蓮堂であるように思われます。利根川は海へ向かって流れているから、崋山ら三人が乗った舟は、もちろん下流の方ではなく、流れに逆らって上流の方向へ進んで行ったに違いない。左手の岸(荒野村の川岸)には、帆を下ろした「大船ども」、すなわち「利根川高瀬船」などが「あなたこなたに」、まるで「島」が湧き出したかのように「纜」(ともづな)をかけて碇泊しています。「本城」(本城村)「まつぎし」(松岸村)の、左岸にその灯火が見える遊郭には「舟子等」のためにもうけられた「娼家」があって、今日のような月夜には多くの遊客たちが浮かれ集まってきているのだろう。そこから「松もと」(松本村)、「今宮」(今宮村)のあたりを振り返ってみると、月は沈もうとしており、空も雲勝ちになったため、三人は舟をもとの船路に戻すことにしました。以上が、崋山が利根川上の舟から眺めた景観。この文章から、崋山はほぼ銚子の地理の概要を頭に入れていることがわかります。対岸の「波崎」「本郷」「海老台」、銚子の「前鬼山」「和田山」、漁師が集住する飯沼村の「田場」や「飯貝」(飯貝根)、かがり火の燃える「千人塚」、遊郭のある「本城」「まつぎし」、川岸に沿って延びる「松もと」「今宮」そして「荒野」などの各街村の家並み。半月ほどにわたる銚子滞在期間中に、崋山はしっかりと銚子の地理的概要を頭に入れてしまっているのです。またこの文章からも、「利根川高瀬船」(川船)や千石船(東北からの廻船)といった大型船や、荷船や漁船などの小型船が密集している銚子湊(利根川河口部)の光景に、崋山が瞠目している様子をうかがうことができます。 . . . 本文を読む