では、行方屋大里庄次郎の屋敷(商家)は銚子の町中のどこにあったのか。それがわかるのがまず「刀祢河游記」の語句の注釈であり、「この里に名おへる一場のすき人にて、名を桂麿といふ」とあり、「この里」とは、「下総国海上郡荒野(こうや)村」とあります。崋山が宿泊していたところに桂麿が訪ねてきて、やがて二人は、「くはうやというちまたにいたり」、小林蓮堂(崋山の「四州真景」の旅の道連れの一人)を訪ねます。この「くはうや」というのは「荒野」のこと。というふうに考えると、桂麿は別宅のようなものを持っていて、そこに崋山を泊まらせていたように思われる。そこは「松のかげさしのぼれば窓ちかうおしよりて、唯ふるさとの空なつかしき」とあるように、桂麿の家からやや離れた松林の中にあったのかも知れない。では、桂麿の家は、荒野村のどこにあったのか。これについては、越川さんが教えてくれた資料により、詳しいことがわかりました。それは筑波大学歴史地理学研究室の『歴史地理学調査報告 第8号』所収の「港町銚子の機能とその変容─荒野地区を中心として─」(舩杉力修・渡辺康代)という論文でした。それによれば、大里家は白幡神社前の通り、「通明神町(とおりみょうじんちょう)」の南側にあり、その通り向かい側には醤油醸造業で有名な「濱口儀兵衛」の大きな商店および醸造工場がありました。 . . . 本文を読む