翌早朝、市内にある浄国寺へと向かいました。ここは大里家の菩提寺であり、崋山が銚子でお世話になった行方(なめかた)屋大里庄次郎(桂麿)らが建てた芭蕉句碑があることを知っていたからです。
浄国寺(浄土宗)の門を入ると石畳の参道の突き当りに本堂があり、広く落ち着いたたたずまい。
その参道右手に「開山上人生誕八百年記念寄附芳名」という黒御影石の石碑があり、それを見ると、なんとトップにあるのは「大里庄治郎」という名前でした。
この浄国寺が大里家の菩提寺であることから考えれば、この「大里庄治郎」という方は、その名前から言っても、大里庄次郎(桂麿)と何らかの形でつながる人だと思われます。
「松尾芭蕉句碑」の案内板が、参道の左手にあり、その右側に句が刻まれた石碑が建っていました。
案内板によると、刻まれている芭蕉の句は、
「枯枝に からすのとまりけり 秋の暮」
地元の豪商大里庄次郎と野崎小平次が、俳聖芭蕉を追慕して弘化2年(1845年)に建てたもの。
檀家の行方屋庄次郎(俳号桂丸)が、句碑の片隅に「あきの夕誰が身のうへぞ鐘が鳴る」の句を添えてある、とも記されています。
そしてその案内板には、海鹿島の「竹久夢二詩碑」の案内板と同じ、銚子市内の詩碑・歌碑マップが掲載されています。
このマップから、この浄国寺があるところは、利根川から見れば、若宮町や銚子駅の背後の丘陵上にあるお寺ということになる。
芭蕉句碑の近くには、「銚子五中五高同窓生慰霊碑」、「銚匝会物故者墓誌」、「鹿島丸慰霊観世音」、「歯の供養塔」などがありました。
墓地はかなり広く、北側の崖際まで墓域となっています。
目立ったのは、戦没兵士の墓が多数あること。
陸軍兵長、陸軍歩兵上等兵、陸軍伍長、陸軍歩兵上等兵、陸軍工兵上等兵、陸軍軍属、陸軍兵長、海軍水兵長など、ざっと見て回っても、圧倒的に陸軍関係者が多く、それも下士官や兵卒が多い。
大里家の墓地はと捜してみましたが、大里家はかなり分家しているらしく、「大里家之墓」はいろいろあるものの、行方屋大里庄次郎家につながるものはなかなか見つかりませんでした。
しかし生垣に囲まれ、一本の大樹が聳えている墓域があり、そこに「高徳院隆譽栄達憲正居士 慈照院徳誉貞室明鏡大姉」と刻まれた墓石があって、その横面には、「高徳院君 第十一代大里庄治郎氏」とあり、明治44年(1911年)に大里家の養嗣子になったことなどがわかります。
「慈照院」の方は、10代庄治郎の娘(長女)として生まれています。
崋山が銚子でお世話になった大里庄次郎富文(桂麿)は6代目で、銚子近傍の素封家宮内太郎左衛門家に生まれ、大里家に養子に入って6代目を襲名しているから、この11代庄治郎も同様(他家から養子に入った)であったことがわかります。
以上のようなことを確認してから、次に向かったのが旭市にあるという千葉県立東部図書館。
到着したのは9:00。
ちなみに千葉県立図書館は、中央図書館(千葉市)、西部図書館(松戸市)、東部図書館(旭市)の3つがあります。
旭市立図書館と違って、まだ新しく、その規模も大きいものでした。
そこで閲覧したのは、
①『もう一つの銚子市史─戦後の民衆運動五十年史』戸石四郎(なのはな出版)
②『続銚子の絵はがき』大里健編著(東京文献センター)
③『銚子の歴史と伝説』銚子市郷土史談会(秀英社)
④『口訳利根川図誌巻6』原著者赤松宗旦(崙書房)
などでした。
①には、戦後の越川芳麿さんの活動などが詳しく載っており、越川さんが平和で民主的な銚子の「まちづくり」や、銚子の環境保全の問題に積極的に関わり、また、国木田独歩・尾崎行雄・小川芋銭・竹久夢二の詩碑・歌碑の建立に中心的な役割を果たしたことなどを知りました。
また、この本には敗戦時の銚子市長として、「官選市長」の大里庄治郎の名前も出て来ました。
これを読むと、越川芳麿さんが、環境優先・住民自治の「まちづくり」を一貫して主張し続けた、銚子を代表する言論人であったことがわかります。
②ではかつての海鹿島別荘地の様子や、海鹿島海水浴場の様子がわかります。海鹿島の海岸にある山は「丸山」と土地の人は呼ぶようですが、その山の上に登っている人々がいるのがわかります。かつての銚子の各地のようすもよくわかります。
③では、高山彦九郎が『銚子磯めぐり日記』(寛政2年〔1790年〕)を著していること。小川芋銭が住んでいた海鹿島の別荘は「潮光庵」であり、越川家(思咢庵)入口右手にあった平屋の建物がそれであること。海鹿(アシカ)がいた島は「平島(ひらじま)」と呼ばれたこと。また国木田独歩、高田町の宮内清右衛門(とくに十世清右衛門)のこと。海鹿島に滞在した竹久夢二と長谷川賢(カタ)(「お島さん」)のこと等を知ることができました。
竹久夢二は、私が登った「伊勢大神宮」(「お伊勢様」)の真下の下り坂あたりに「宮下」という宿があって、そこにたまき(協議離婚したかつての妻)と滞在しており、その西隣が「長谷川家」であったという。そしてこの「お伊勢様」がある浦が、「伊勢路浦」と呼ばれていたことも知りました。
④では、銚子はかつて「関東第一の港」であり、町屋は、新生・荒野・今宮・松本の4村を中心に形成されていたことを知りました。行方屋大里庄次郎の屋敷があったのは、このうち荒野村。
P72~73に「銚子濱磯巡の図」が掲載されていました。またP82~83には、「銚子浦濱巡 海獺嶋眺望の図」があって、「丸山」の上に人が登っていて、「遠眼鏡」で海鹿島のアシカや海を眺めている人物が描きこまれています。
伊勢路浦の砂浜や丸山の上から「遠眼鏡」で珍しいアシカの姿を見るというのは、どうやら、ここでは「遊山客」にとっては一般的なことであり、しかもP84には、「遠眼鏡」で覗いたアシカの姿までしっかりと描かれています。
12:00過ぎに、千葉県立東部図書館を出て、海岸沿いに銚子へと戻ることにしました。
続く
○参考文献
・『宮負定雄下総名勝図絵』川名登編(国書刊行会)
・『口訳利根川図志巻6』赤松宗旦著阿部正路・浅野通有訳(崙書房)
・文中掲載著書
浄国寺(浄土宗)の門を入ると石畳の参道の突き当りに本堂があり、広く落ち着いたたたずまい。
その参道右手に「開山上人生誕八百年記念寄附芳名」という黒御影石の石碑があり、それを見ると、なんとトップにあるのは「大里庄治郎」という名前でした。
この浄国寺が大里家の菩提寺であることから考えれば、この「大里庄治郎」という方は、その名前から言っても、大里庄次郎(桂麿)と何らかの形でつながる人だと思われます。
「松尾芭蕉句碑」の案内板が、参道の左手にあり、その右側に句が刻まれた石碑が建っていました。
案内板によると、刻まれている芭蕉の句は、
「枯枝に からすのとまりけり 秋の暮」
地元の豪商大里庄次郎と野崎小平次が、俳聖芭蕉を追慕して弘化2年(1845年)に建てたもの。
檀家の行方屋庄次郎(俳号桂丸)が、句碑の片隅に「あきの夕誰が身のうへぞ鐘が鳴る」の句を添えてある、とも記されています。
そしてその案内板には、海鹿島の「竹久夢二詩碑」の案内板と同じ、銚子市内の詩碑・歌碑マップが掲載されています。
このマップから、この浄国寺があるところは、利根川から見れば、若宮町や銚子駅の背後の丘陵上にあるお寺ということになる。
芭蕉句碑の近くには、「銚子五中五高同窓生慰霊碑」、「銚匝会物故者墓誌」、「鹿島丸慰霊観世音」、「歯の供養塔」などがありました。
墓地はかなり広く、北側の崖際まで墓域となっています。
目立ったのは、戦没兵士の墓が多数あること。
陸軍兵長、陸軍歩兵上等兵、陸軍伍長、陸軍歩兵上等兵、陸軍工兵上等兵、陸軍軍属、陸軍兵長、海軍水兵長など、ざっと見て回っても、圧倒的に陸軍関係者が多く、それも下士官や兵卒が多い。
大里家の墓地はと捜してみましたが、大里家はかなり分家しているらしく、「大里家之墓」はいろいろあるものの、行方屋大里庄次郎家につながるものはなかなか見つかりませんでした。
しかし生垣に囲まれ、一本の大樹が聳えている墓域があり、そこに「高徳院隆譽栄達憲正居士 慈照院徳誉貞室明鏡大姉」と刻まれた墓石があって、その横面には、「高徳院君 第十一代大里庄治郎氏」とあり、明治44年(1911年)に大里家の養嗣子になったことなどがわかります。
「慈照院」の方は、10代庄治郎の娘(長女)として生まれています。
崋山が銚子でお世話になった大里庄次郎富文(桂麿)は6代目で、銚子近傍の素封家宮内太郎左衛門家に生まれ、大里家に養子に入って6代目を襲名しているから、この11代庄治郎も同様(他家から養子に入った)であったことがわかります。
以上のようなことを確認してから、次に向かったのが旭市にあるという千葉県立東部図書館。
到着したのは9:00。
ちなみに千葉県立図書館は、中央図書館(千葉市)、西部図書館(松戸市)、東部図書館(旭市)の3つがあります。
旭市立図書館と違って、まだ新しく、その規模も大きいものでした。
そこで閲覧したのは、
①『もう一つの銚子市史─戦後の民衆運動五十年史』戸石四郎(なのはな出版)
②『続銚子の絵はがき』大里健編著(東京文献センター)
③『銚子の歴史と伝説』銚子市郷土史談会(秀英社)
④『口訳利根川図誌巻6』原著者赤松宗旦(崙書房)
などでした。
①には、戦後の越川芳麿さんの活動などが詳しく載っており、越川さんが平和で民主的な銚子の「まちづくり」や、銚子の環境保全の問題に積極的に関わり、また、国木田独歩・尾崎行雄・小川芋銭・竹久夢二の詩碑・歌碑の建立に中心的な役割を果たしたことなどを知りました。
また、この本には敗戦時の銚子市長として、「官選市長」の大里庄治郎の名前も出て来ました。
これを読むと、越川芳麿さんが、環境優先・住民自治の「まちづくり」を一貫して主張し続けた、銚子を代表する言論人であったことがわかります。
②ではかつての海鹿島別荘地の様子や、海鹿島海水浴場の様子がわかります。海鹿島の海岸にある山は「丸山」と土地の人は呼ぶようですが、その山の上に登っている人々がいるのがわかります。かつての銚子の各地のようすもよくわかります。
③では、高山彦九郎が『銚子磯めぐり日記』(寛政2年〔1790年〕)を著していること。小川芋銭が住んでいた海鹿島の別荘は「潮光庵」であり、越川家(思咢庵)入口右手にあった平屋の建物がそれであること。海鹿(アシカ)がいた島は「平島(ひらじま)」と呼ばれたこと。また国木田独歩、高田町の宮内清右衛門(とくに十世清右衛門)のこと。海鹿島に滞在した竹久夢二と長谷川賢(カタ)(「お島さん」)のこと等を知ることができました。
竹久夢二は、私が登った「伊勢大神宮」(「お伊勢様」)の真下の下り坂あたりに「宮下」という宿があって、そこにたまき(協議離婚したかつての妻)と滞在しており、その西隣が「長谷川家」であったという。そしてこの「お伊勢様」がある浦が、「伊勢路浦」と呼ばれていたことも知りました。
④では、銚子はかつて「関東第一の港」であり、町屋は、新生・荒野・今宮・松本の4村を中心に形成されていたことを知りました。行方屋大里庄次郎の屋敷があったのは、このうち荒野村。
P72~73に「銚子濱磯巡の図」が掲載されていました。またP82~83には、「銚子浦濱巡 海獺嶋眺望の図」があって、「丸山」の上に人が登っていて、「遠眼鏡」で海鹿島のアシカや海を眺めている人物が描きこまれています。
伊勢路浦の砂浜や丸山の上から「遠眼鏡」で珍しいアシカの姿を見るというのは、どうやら、ここでは「遊山客」にとっては一般的なことであり、しかもP84には、「遠眼鏡」で覗いたアシカの姿までしっかりと描かれています。
12:00過ぎに、千葉県立東部図書館を出て、海岸沿いに銚子へと戻ることにしました。
続く
○参考文献
・『宮負定雄下総名勝図絵』川名登編(国書刊行会)
・『口訳利根川図志巻6』赤松宗旦著阿部正路・浅野通有訳(崙書房)
・文中掲載著書
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