銚子荒野村の大里庄次郎(桂麿)家に逗留したものと思われる崋山は、その庄次郎およびその周辺の人々(銚子の人々)と交流を持ったと思われますが、その詳しいことは、その半月ばかりの期間の記録が「刀祢河游記」を除いて全く残されていないので、何もわかりません。崋山が大里家の中にじっとしていたなどということは想像できないので、庄次郎らの案内で銚子の港や河岸を見て回ったり、ひとかどの人々と酒を飲んで情報交換をしたり、町中の神社やお寺を見て回ったりしたものと思われます。では、銚子海岸の磯めぐりは誰と出掛けたのだろう。道案内の者は誰かいたものと思われますが、それは大里庄次郎だったのだろうか。それとも別の人だったのだろうか。『四州真景図』の絵の順番は、「新町大手、町奉行やしき」→「川口、鵜ノ糞石」→「霧ヶ浜ヨリ海鹿島ヲ見ル、アシカ」→「和田不動道より海ヲ見ル」→「穴ヶ崎」→「(無題)〔屏風ヶ浦か〕」→「長崎」→「(無題)〔屏風ヶ浦か〕→「犬吠埼、胎内潜、伊勢路浦」→「浦中」→「黒生」→「クロハエ小湊」というもの。絵の順番はこうですが、そのそれぞれの場所からして、この順番で崋山が歩いたものとは思われない。何回かに分けて崋山はスケッチ旅行をしたのではないかと思われます。 . . . 本文を読む