東北諸藩の年貢米や海産物、銚子の醤油や、銚子海岸から九十九里浜(北部)にかけて生産された干鰯(ほしか)・〆粕(しめかす)・魚油などを江戸へと運んだのは高瀬船(利根川高瀬船)であり、それは渡辺貢二さんの『続高瀬船』(崙書房)によれば、「他の地域の高瀬舟とは似ても似つかぬ巨船」でした。この船は、「北関東や奥州の米を江戸へ運ぶことを主目的に生まれ」たものであり、それは「すべての点で日本の川舟史の頂点に立つもの」であって、「船のすべてがたとえようもなく美し」いものでした。船の木部は磨かれて光っており、船頭は、「河岸ばんてん」「ももひき」「麻裏ぞうり」を着用し、船上ではすり足で歩いたという。けっして汚(きたな)らしい船ではなかったのです。帆柱の帆は最大11反帆。少なくとも5反帆はありました。船頭の操る「サオ」は長さ25尺~30尺(約9m)、直径7~8寸(約2.5cm)。「サオは三年、ロは三月(みつき)」というように、長く太い「サオ」を一人前に操れるようになるのに3年はかかりました。船頭は、「サオツボ」を「胸に当て、腰と背中の筋肉、いや足のつま先から上、全身の筋力を総動員して、からだを弓なりにして船を動か」しました。崋山の「松岸より銚子を見る図」や「常陸波崎ヨリ銚子ヲ見ル」図には、その「利根川高瀬船」が銚子の湊に密集して碇泊する様子が印象深く描かれていますが、崋山は銚子に居住するこの「利根川高瀬船」の船頭たちとも、銚子滞在中に親しく話を交わしていたかも知れない。 . . . 本文を読む