鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 銚子海岸遊覧 その6

2012-01-15 06:26:54 | Weblog
行方屋大里庄次郎(桂麿)が住んでいた荒野村(こうやむら)はどういう村であったのか。「港町銚子の機能とその変容」によれば、荒野村には「十軒党」と称する組織があり、その構成員は東芝(ひがししば)・西芝(にししば)に居住していた百姓であり、庚申講や恵比寿講などの講中を形成していました。彼らのもともとの住所は東芝や西芝ではなく、荒野村の中心地である白幡明神付近であり、村の草分け的存在であったようだ。17世紀後期になって広屋(浜口)儀兵衛など紀州移民などが来住してくるようになると、その土地や資本を提供して、彼らは村の南にあたる東芝や西芝へ移住して、その地の地主や百姓として活動していったと考えられる、という。荒野村の利根川べりの村人たちは、もともとは専ら漁業(鰯漁など)に従事し、川に面したところに納屋場があってそこに居住していましたが、次第に商工業が発展してくるとその漁業をやめ、商工業に従事する人が大半になっていきました。通明神町(とおりみょうじんちょう)の広屋(浜口)儀兵衛や道を挟んだ真向いの行方屋大里庄次郎の先祖(初代)らが、他国からこの荒野村の中心地である白幡明神近くに移住してきたのは、17世紀末期以降(大里家の場合は宝永元年〔1704年〕)のことでした。 . . . 本文を読む