「千葉県立 房総のむら 案内図」を見て驚いたのは、この「房総のむら」の周辺にはおびただしい数の古墳があること。「浅間山古墳」という前方後円墳や「みそ岩屋古墳」のような方墳の大型古墳もあるけれども、中小規模の古墳が、特に「房総のむら」の西側や南側に集中しています。
この西側および南側のエリアは、水色の線で囲まれており、赤色の線で囲まれた「房総のむら」のエリアとは別のエリアになっており、ここには「印旛沼の見える遊歩道」や「白鳳道」があったりして、自由に散策できるようになっています。
この「白鳳道」という名前に惹かれましたが、この沿道には、「古墳広場」や「浅間山古墳」(前方後円墳)があり、その道は真北に移置する龍角寺へと続いています。
この古墳群全体を、「龍角寺古墳群」というようですが、その「龍角寺」へ続く「白鳳道」沿いの丘陵に、「房総のむら」があることになります。
赤色の線で囲まれたエリアは、「ふるさとの技体験エリア」であって、これが「房総のむら」。
商家の町並みばかりか、武家屋敷、水田や農家なども点在している広大なエリアです。
その「房総のむら」に入る前に、まず目に付いたのは、黒く塗られた「書状集箱」。これは案内板によると、日本近代郵便制度が発足した明治4年(1871年)に制定されたものを復元したもので、県立博物館房総のむらに特に設置したものであって、現在も利用可能であるとのこと。
要するに明治初期の郵便制度発足期の郵便ポストを復元したものであるわけですが、実は、この「房総のむら」の施設全体が復元(再現)したものであり、私が勝手に想像していたように、房総半島各地の古民家や古商家などの主だったものを、ここに移築したものではありませんでした。
川崎の「日本民家園」は、関東地方を中心とした古民家などを、各地から移築し復元したもの。しかし、この「房総のむら」は、周辺の環境も含めて町並みや農家などを再現し、そこで「ふるさとの技」を体験するところであるようです。
そのことは、入館する時にもらったパンフレットで、はっきりとわかりました。
それには、次のように記されていました。
「ふるさとの技 体験エリア 江戸時代後期から明治初期における房総の商家・武家屋敷・農家などを当時の景観・環境を含めて再現するとともに、実演や来館者自らが直接体験することによって伝統的技術や生活様式を学ぶことができます。」
また次のようにも記されています。
「房総のむらでは、展示だけでなく来館者自らが直接体験し、みる・きく・かぐ・あじわう・ふれるの五感を通して、房総地方に古くから伝わる技術や生活様式への理解を深めることができます。」
つまり体験型の歴史博物館が、「房総のむら」であるということになります。
そのパンフレットによれば、水色の線で囲まれたエリアは、「歴史と自然を学ぶ風土記の丘エリア」であって、ここは、風土記の丘資料館・復元竪穴住居を除き無料となってます。
さっそく大木戸を潜って入ってみると、左手の道に沿って、その両側に商家がズラッと並んでおり、その道は奥の方で右手へとカーブしています。
開館したばかり(9:00過ぎ)で、観光客の姿がまだまったく道路上に見られないこともあって、かつての街道沿いの宿場町のようなところにタイムスリップしたような感覚を味わいました。
木造2階建てや土蔵造り2階建ての商家やその店舗内を見ながら、その道を進むと、右手にカーブしたところに橋があり、その堀のような川の岸上には、底を上に見せた平底船が3艘ばかり並んで置かれていました。
そのまま道なりに進んで行くと、武家屋敷がありましたが、これは案内板によると、江戸時代末期の佐倉藩中級武士の家を再現したもの。主屋は、佐倉市宮小路(旧鏑木小路)にある武居家をモデルにしたものだとのこと。
この佐倉市宮小路(旧鏑木小路)の武家屋敷のあったところについては、佐倉城址にある国立歴史民俗博物館を訪れた帰途、立ち寄っていますが、時間の関係で内部をゆっくりと観覧することはありませんでした。
しかし期せずして、この「房総のむら」で、再現されたものではあるけれども、その内部をゆっくりと観覧することができました。
武家屋敷らしく端正なたたずまいであり、敷地を取り囲む生垣、庭に井戸や菜園などもあって、中級武士の屋敷(それも新築間もないような)はこのようなものであったのだろうと、実感することができました。
しかし私にとって圧巻だったのは、それに続く、「上総の農家」、「下総の農家」、「安房の農家」の、周辺環境も含めた見事な景観(の復元)でした。
村への入口は、「綱つり」から始まる。
「綱つり」とは、各町内との境や、隣の村との境に左ないの縄を吊り、それにわらで作ったかしま人形や蛸(たこ)、海老(えび)、束子(たわし)などを吊り下げて、町内繁盛や外から災いが入るのを防ぐ願いを込めたもの。
まず私が見たのは、木更津市金田中島の「綱つり」でしたが、道の上に、両側の竹竿から左右に渡した縄から、かしま(鹿島)人形や草鞋(わらじ)、木札などがずらりとぶら下がっている風景は、初めて見るものであり、かつての道の村の境などには(房総地方において)、こういうものがあったんだ、と新鮮な感動をもって認識を新たにしました。
この「綱つり」は、以後も、様々な種類のものをエリア内のあちこちで見掛け、房総の道筋には、かつていたるところにあったのでは、と思わせるほどでした。
まず現れた農家は、「上総の農家」で、上総国の代表的な名主クラスの農家を再現したものだという。
具体的には、山武郡大網白里町に現存する秋葉家を昔の姿に再現したものであり、その主屋は安政4年(1857年)に建築されたものとのことでした。
続く
○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
この西側および南側のエリアは、水色の線で囲まれており、赤色の線で囲まれた「房総のむら」のエリアとは別のエリアになっており、ここには「印旛沼の見える遊歩道」や「白鳳道」があったりして、自由に散策できるようになっています。
この「白鳳道」という名前に惹かれましたが、この沿道には、「古墳広場」や「浅間山古墳」(前方後円墳)があり、その道は真北に移置する龍角寺へと続いています。
この古墳群全体を、「龍角寺古墳群」というようですが、その「龍角寺」へ続く「白鳳道」沿いの丘陵に、「房総のむら」があることになります。
赤色の線で囲まれたエリアは、「ふるさとの技体験エリア」であって、これが「房総のむら」。
商家の町並みばかりか、武家屋敷、水田や農家なども点在している広大なエリアです。
その「房総のむら」に入る前に、まず目に付いたのは、黒く塗られた「書状集箱」。これは案内板によると、日本近代郵便制度が発足した明治4年(1871年)に制定されたものを復元したもので、県立博物館房総のむらに特に設置したものであって、現在も利用可能であるとのこと。
要するに明治初期の郵便制度発足期の郵便ポストを復元したものであるわけですが、実は、この「房総のむら」の施設全体が復元(再現)したものであり、私が勝手に想像していたように、房総半島各地の古民家や古商家などの主だったものを、ここに移築したものではありませんでした。
川崎の「日本民家園」は、関東地方を中心とした古民家などを、各地から移築し復元したもの。しかし、この「房総のむら」は、周辺の環境も含めて町並みや農家などを再現し、そこで「ふるさとの技」を体験するところであるようです。
そのことは、入館する時にもらったパンフレットで、はっきりとわかりました。
それには、次のように記されていました。
「ふるさとの技 体験エリア 江戸時代後期から明治初期における房総の商家・武家屋敷・農家などを当時の景観・環境を含めて再現するとともに、実演や来館者自らが直接体験することによって伝統的技術や生活様式を学ぶことができます。」
また次のようにも記されています。
「房総のむらでは、展示だけでなく来館者自らが直接体験し、みる・きく・かぐ・あじわう・ふれるの五感を通して、房総地方に古くから伝わる技術や生活様式への理解を深めることができます。」
つまり体験型の歴史博物館が、「房総のむら」であるということになります。
そのパンフレットによれば、水色の線で囲まれたエリアは、「歴史と自然を学ぶ風土記の丘エリア」であって、ここは、風土記の丘資料館・復元竪穴住居を除き無料となってます。
さっそく大木戸を潜って入ってみると、左手の道に沿って、その両側に商家がズラッと並んでおり、その道は奥の方で右手へとカーブしています。
開館したばかり(9:00過ぎ)で、観光客の姿がまだまったく道路上に見られないこともあって、かつての街道沿いの宿場町のようなところにタイムスリップしたような感覚を味わいました。
木造2階建てや土蔵造り2階建ての商家やその店舗内を見ながら、その道を進むと、右手にカーブしたところに橋があり、その堀のような川の岸上には、底を上に見せた平底船が3艘ばかり並んで置かれていました。
そのまま道なりに進んで行くと、武家屋敷がありましたが、これは案内板によると、江戸時代末期の佐倉藩中級武士の家を再現したもの。主屋は、佐倉市宮小路(旧鏑木小路)にある武居家をモデルにしたものだとのこと。
この佐倉市宮小路(旧鏑木小路)の武家屋敷のあったところについては、佐倉城址にある国立歴史民俗博物館を訪れた帰途、立ち寄っていますが、時間の関係で内部をゆっくりと観覧することはありませんでした。
しかし期せずして、この「房総のむら」で、再現されたものではあるけれども、その内部をゆっくりと観覧することができました。
武家屋敷らしく端正なたたずまいであり、敷地を取り囲む生垣、庭に井戸や菜園などもあって、中級武士の屋敷(それも新築間もないような)はこのようなものであったのだろうと、実感することができました。
しかし私にとって圧巻だったのは、それに続く、「上総の農家」、「下総の農家」、「安房の農家」の、周辺環境も含めた見事な景観(の復元)でした。
村への入口は、「綱つり」から始まる。
「綱つり」とは、各町内との境や、隣の村との境に左ないの縄を吊り、それにわらで作ったかしま人形や蛸(たこ)、海老(えび)、束子(たわし)などを吊り下げて、町内繁盛や外から災いが入るのを防ぐ願いを込めたもの。
まず私が見たのは、木更津市金田中島の「綱つり」でしたが、道の上に、両側の竹竿から左右に渡した縄から、かしま(鹿島)人形や草鞋(わらじ)、木札などがずらりとぶら下がっている風景は、初めて見るものであり、かつての道の村の境などには(房総地方において)、こういうものがあったんだ、と新鮮な感動をもって認識を新たにしました。
この「綱つり」は、以後も、様々な種類のものをエリア内のあちこちで見掛け、房総の道筋には、かつていたるところにあったのでは、と思わせるほどでした。
まず現れた農家は、「上総の農家」で、上総国の代表的な名主クラスの農家を再現したものだという。
具体的には、山武郡大網白里町に現存する秋葉家を昔の姿に再現したものであり、その主屋は安政4年(1857年)に建築されたものとのことでした。
続く
○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
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