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素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

いよいよ今日の19時より『第九』の本番です

2009年12月16日 | 日記
 昨日の18:30より、北区民センターにて最後の練習。細かい部分をチェックしながら通していった。暗譜で80%ほど参加できるようになった。「よくぞここまで」という思いにとらわれる。しかし、1ヶ月遅れで参加した分、間にあわなかったのは事実。

 毎週、大阪市内によく通った。浪速区民センター、天王寺区民センター、中央青年センター、西成区民センター、いきいきエイジングセンターなど。一番多かったのが中央公会堂である。もう来ることはないので中ノ島周辺を写真に収めてきた。

    御堂筋をはさんで大阪市役所

 ベートーヴェンは、1770年に、神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで生まれる。祖父は宮廷歌手として成功していたが、同じ宮廷歌手である父は酒に溺れていたため、祖父が生計を支えていた。3歳の時、祖父が亡くなり生活は困窮した。歌手としての生命が終わっていた父は、当時、天才音楽家として有名だったモーツアルトにヒントを得て、4歳の頃から苛烈を極める音楽教育を課した。

 父の教育は成功していたとは言い難いものだったが、ベートーヴェンは早熟の天才として才能を開花させていき、10代の頃には、一家の生計を支えるようになる。16歳の時、ウィーンを訪れ、憧れのモーツアルトと対面を果たした。この時、モーツアルトは30歳。 モーツアルトに弟子入りを申し出て、許されたが、最愛の母親の訃報によって故郷に帰らざるをえなかった。この4年後に、モーツアルトは亡くなるので、弟子になることはできなかった。

 母の死後は、アルコール依存症となり失職した父や幼い兄弟たちのために、仕事を掛け持ちして家計を支える苦悩の日々を過ごした。1792年7月、ウィーンに帰る途中ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められ弟子入りを許された。 11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手として名声を博した。

 24歳の時、初めて「ピアノ三重奏曲」を作曲し、少年演奏家から音楽家へと歩み始める。しかし、28歳ぐらいから、耳が聞こえづらいことに気づき、30歳になるころには中途失聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から1802年に『ハイリゲンシュタットの遺書』を記し自死も考えたが、強靭な精神力でこの苦悩を乗り越え、演奏を中心とした音楽家から、作曲を専門にする音楽家へと転進することを決意。

 1804年、交響曲第3番を発表したのを皮切りに、難聴と向き合ったベートーヴェンは次々と曲を作り上げていく。「エロイカ」「運命」「田園」などの交響曲やピアノソナタなどが作られ、生涯に作曲した約半分は、この時期の作品である。約10年にわたるこの時期を、「ベートーヴェンの生涯」を著したロマン・ロランは『傑作の森』と表現している。

 40代に入ると、難聴が次第に悪化し、晩年の約10年はほぼ聞こえない状態にまで陥った。また、神経症とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥のカールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞した。そうした苦悩の中で、1822年から1824年にかけ『交響曲第九番』は作曲された。52歳から54歳の時である。その3年後、57歳で“嵐の一日のような”生涯を閉じる。

 シラーの詩“An die Freude"(歓喜に寄す)は、シラー26歳の1785年に作られた。この詩に初めて作曲したのはケルナーという人で、1786年には、その旋律とともに、ベートーヴェンの住むボンにも入って、ボンの青年たちは、この長い詩を杯をあげながら歌ったという。

 「歓喜に寄す」がベートーヴェンのスケッチ帳にあらわれるのは1812年、41歳の時である。しかし、作曲しようという気になったのは、それよりも20年前のことであったという。

    淀屋橋より御堂筋のイルミネーション

 「ベートーヴェンの生涯」の中でロマン・ロランは、「第九」の初演の様子をこう書いている。

 1824年5月7日にヴィーンにおいて、『荘厳なミサ曲』と『第九交響曲』とが初演された。成功は凱旋的であった。それはほとんど喧騒にまで陥った。ベートーヴェンがステージに現れると、彼は喝采の一斉射撃を五度までも浴びせかけられた。儀礼的なこの国では宮廷の人々の来場に際しても三度だけ喝采するのが習慣であった。警官が喝采の大騒ぎを鎮めなければならなくなった。

 第九交響曲は気狂いじみた感激を巻き起こした。多数の聴衆が泣き出していた。ベートーヴェンは演奏会の後で、感動のあまり気絶した

 人々が熱狂したのは作品の素晴らしさもあるが、当時の社会的な背景もあったのではないかと思う。昨日の最後の練習でも、二ヶ所で、指導者が「ここは一度、隣の人と腕を組むなり、肩に手をまわすなりして歌ってみましょう」と言われた。「ばらばらになっていた者が連帯していく、その喜びを表現していく気持ちを忘れないで欲しい」とのこと。

 当時のヨーロッパは転換点にさしかかっていた。1760年頃よりイギリスでは産業革命が起こり、1776年にアメリカ独立宣言がなされ、1789年フランス革命開始。ベートーヴェンも多感な時期、強く関心を寄せていた。1804年ナポレオンが皇帝に即位。1814年には失脚、ウィーン会議で復古的なウィーン体制がしかれる。この保守主義の風潮に対して、各国のブルジョワジーは自由主義で対立した。

 今までの植民地、帝国が分離独立して、社会が近代国家へと生まれ変わっていくダイナミックな動き、大きな地殻変動があった時代である。文化面でも古典主義の表現形式の規制を打破して、自我の自由な表現を追求しようとしたロマン主義への転換があった。1814年のヴィーン会議を境にして、ヴェートーベンは栄光の時期から最も悲しく、惨めな時期を迎えるのである。

 人々は政治に心を奪われて芸術を忘れた。音楽の好みはイタリア派のために毒された。そして、すっかりロッシーニにかぶれた新流行が、ベートーヴェンを頑なな理屈屋だといい出した。ベートーヴェンの味方であり擁護者だった人々は、そのあいだに散り散りになったり死んだりした。(中略)「自分は一人も友を持たない。世界中に独りぼっちだ」と1816年の『手記』の中に書いている。

     一番多く通った中央公会堂


 ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』の最後は、次のように締めくくられている。

 不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜を拒まれたその人間がみずから歓喜を造り出すーそれを世界に贈りものとするために。彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛え出す。そのことを彼は次の誇らしい言葉によって表現したが、この言葉の中には彼の生涯が煮つめられており、またこれは、雄々しい彼の魂全体にとっての金言でもあった。

『悩みをつき抜けて歓喜に到れ!』Durch Leiden Freude

第九の合唱は、バリトンのソリストのFreudeを受けての私のパートであるベースのFreudeから始まる。ベートーヴェンの苦悩に比べれば、私の苦悩などけし粒みたいなものだが、この3ヶ月の思いと彼のこの作品へ到る歩みを胸に、思い切り『Freude!』(歓喜よ!)とシンフォニーホールに響かせたい。

  

 

 

 
 

 
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気分一新、新車になりました

2009年12月15日 | 日記
 遠出等に使っていたホンダの「フィット・アリア」が2月に車検を迎えるため、エコ減税のこともあり、買い換えることにした。

 新しい車はホンダの「FREED」。前回の時は私だけの好みで言えば「Fit」。ただ、四国の田舎に行ったとき、野菜や米などをたくさん積むためトランクの広さが必要なので「Fit・Area」に決めた。

 妻が主に使うので大きくないこと、ただしグループ旅行にもよく出かけるので5人よりは多く乗ることができる方が便利。それらを考え合わせると今回は「FREED」しかないと思った。コンパクトだが7人がしっかり乗れる3列シート。3列目をあげれば、背の高い鉢も27インチの自転車も積めるので使い方の幅が広がる。

 販売店のHondaCars交野(三光ホンダ)とは30年余りのつきあいになる。最初の赴任校の教頭先生の教え子が店を開いたからとたのまれたのがきっかけである。これもまた1つの出会いである。「高級車以外はほとんどのホンダの車に乗った」というぐらいで、それぞれの車種に自分の人生を重ねることができる。

 もともと、私は自動車は嫌いで、新任の時は自転車を使っていたが、結婚を機に子どもの保育所の送迎などを考えた時「自動車は必要!」と考え、いそいで免許を取得するため自動車学校に通った。

 私の母は、50歳を過ぎた時、これからのことを考えたら自動車の免許は要る。と思い、一念発起、自動車学校に通った。まわりの者はびっくりしたが大正解だったと思う。

 信念も大事だが、人生のある瞬間に予感めいたものが降りてくることがある。それには従ったほうが良いような気がする。

 新しい車の乗り心地は快適。6~7年ごとに買い換えていくと、その間の技術やアイデアの進歩に驚かされる。
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松本清張生誕100年

2009年12月14日 | 日記
 松本清張生誕100年を記念してのTVドラマがよく放映される。清張の小説のドラマ化はなかなかむずかしいという思いがある。トリック、時代背景、心理描写をふくめ、あの独特の雰囲気を表現することは至難の技だと思う。

 私が清張の推理小説に出合ったのは中学2年の秋。中学の時はバレーボール部、陸上部、相撲部、気象観測部に所属していた。シーズンによってメインとなる活動を変えていたのである。私だけではなく、運動にそこそこ自信のあるものは複数のクラブに所属した。

 体育祭前、陸上部の走り幅跳びの練習中に、踏み切ったときに右足大腿部の奥でピッと痛みが走った。大きな痛みでなかったので1週間ほど我慢して生活していたが、一向によくならないので病院へ行くと、大腿骨剥離骨折との診断。腰から右足大腿部にかけてギブスで固定され約1ヶ月の入院。

 その時に病院の簡易図書室にあった清張の「点と線」「0の焦点」「Dの複合」などを読んで時間をつぶした。入院がなければあれほど多くの本は読まなかっただろう。

 大学の時、「昭和史発掘」の出版記念で名古屋の『丸善』で講演会があったので聴きにいった。中身は覚えてないが、風貌から受ける印象と違い、結構ユーモアがあったことだけ印象にのこっている。サイン会があり、その時買った「昭和史発掘②」は大切に置いてある。

 せっかくの企画、ドラマを楽しんでいきたい。
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今日の『時代の風』はよかった

2009年12月13日 | 日記
 毎週日曜日の朝刊には『時代の風』というコーナーがあり、各方面で活躍している人たちが執筆しているが、今日の桐野夏生さんの文は心に入った。

桐野さんは、1951年10月生まれ、私と同じ58歳。同じような思いを持つのはやはり年齢のせいかとあらためて思った。

 彼女が小学生の時に担任教師の話から『死』を意識して生きてきた。と書いている。
 
 私も担任の話から同じような思いにとらわれた。その担任は2つの話をよくした。1つは、海の引き潮の話。知らぬ間に引き潮によって、沖合いに流され死んだ人の話。津波の引き潮によって海にのみこまれる話。それらを実にリアルに語った。

 当時は、学校にプールがなく、海へ行って学校水泳をしていたので海の怖さを教えるという意味合いで誇張して話されたと思うが、一瞬にして「死」の世界に突き落とされる不安な気持ちを強く持ってしまった。

 もう1つは、頭を強く打った人が、意識も外傷も問題がなかったので、そのまま楽しく過ごしていると、30分~1時間ぐらい経過した頃、自分で気づかないうちにおしっこをもらし、だんだん意識がもうろうとしてきて死んでしまう。と言う話。これも実にリアルであった。胴馬とか相撲、プロレスなど危険な遊びをしている男子を戒めるために話されていたのだと思うが、実にこたえた。

 小学校の高学年から中学にかけて1年間で10cmずつ身長が伸びていった(中3で181cm)私は頭を敷居などでよく打った。その都度、担任の話が頭をよぎり「死の恐怖」に1時間近くさいなまれるのであった。特に、知らぬ間におしっこをもらすというのが、思春期の私にとってはたまらなく嫌なことだった。

 ソファで調子にのってトランポリンのように跳んでいて、天井に頭を打ちつけた時は、本当にもう駄目かもしれないと思い、担任が教えてくれた処置「じっと動かない」を2時間ほど実行した。いつ自分の体、意識に変調をきたすかと心配しながらじっと耐えていた。

 夏生さんは、最後に「自死」についてもふれている。



 




 

 
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出逢い

2009年12月12日 | 日記
 昨日借りた渡辺貞夫のアルバム“INTO  TOMORROW"をパソコンに取り込み、BGMにしてブログを書いている。アルトサックスの響きが心地よい。

 アルバムに寄せて、ナベサダの一文がある。

    『出逢い。 
     人生の妙味は、これに尽きると思います。
     ぼくはミュージシャンなので、自分のテイストに合った仲間たちに出逢えた嬉しさは格別です。
     今回のレコーディングに際しては前日のリハーサルで曲のフォームを決めただけで、
     あとは彼らの自由な解釈に任せました。
     テイクは一度だけ、バラードはリハーサルもなく本番でした。

     このアルバム制作に関わってくれた、ミュージシャンとスタッフに感謝します。
     そして僕の家族に、ありがとう。

     最後に、ぼくの親しい友人のチャーリー・マリアーノ、
     そして、今回のアルバムのライナーをお願いしたかった黒田恭一さんに、
     このアルバムを捧げます。』

 以前TVで、ナベサダのメンバーに加わった20歳前後だったと思うが、若いドラマーを追跡したドキュメントがあった。必死でドラムをたたく、孫ほど歳の違う若者に渡辺さんは「もっと、ご機嫌に!」とよく声をかけていた。渡辺さんにとって、メンバーとの演奏は楽器を通しての会話なんだと思った。正確にきちっとすることの上に“楽しく”おしゃべりをしようよと若者に呼びかける。

 キャリアも浅く、余裕のない若者にとってはとてもむずかしい課題である。ナベサダに選ばれているのだから技術も感性も優れたものを持っている彼の悩む姿をカメラが追っていくのだが、暖かく見守るナベサダの人柄も相伴って、ドラマチックな派手さはないが心にしみるいい番組だった。

 何かがふっきれて演奏する若者を眺め、他のメンバーに「ご機嫌だねぇ」と嬉しそうにニッコリ微笑みながらつぶやくシーンが印象的だった。

 第九の指導の中でも、終盤にさしっかかった時点で、三原さんは、ここでは弦楽器がこういう風にがんばっているから、ここは金管の動きを意識していてくださいとか、ソプラノがこういう感じでがんばっているので他パートはしっかり支えてあげてください。ソリストの呼びかけに対しての応えなのだからなどと自分のパートだけではなく、オーケストラ、ソリスト、他のパートの動きもしっかり受けとめながらの表現を要求することが増えてきた。ジャンルこそ違え、やはり会話なんだと思う。

 私自身は残念ながら、その余裕はない。ほんの5%ぐらいの部分でしかご機嫌に参加することはできない。全然本格的な合唱を経験をしたことがない者が3ヶ月余りで楽しめるほど簡単な曲ではない。ということもよくわかった。いろいろな偶然の重なりの中での“フロイデ”との出逢いであったが、たくさんのことを学んだ。

 自分自身のさまざまな出逢いを考えてみると、本当に不思議な気がする。“もしあの時こうであったら”この人と一生出逢うことなく人生を過ごしていっただろうと思うことがしばしばある。それゆえに、偶然に感謝し、会話を楽しんでいきたい。
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