素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

新川さんから連想した3人の女性②杉本苑子

2024年08月22日 | 日記
 1964年10月10日に開会した東京五輪の時、私は13歳、中学2年生だった。テレビが我が家に来て5年目、国際大会をリアルに見るのは初めてで繰り広げられる熱戦に単純に興奮していた。一番記憶に残っているオリンピックである。

 その明るいだけの記憶に一石を投じてくれたのが、直木賞作家杉本苑子さんが1964年の東京オリンピックの開会式を見て書いた「あすへの祈念」という文章である。2020年の東京五輪・パラリンピックを前に、毎日新聞の「余録」やNHKのドキュメント番組で取り上げられた。特に、NHKの学徒出陣壮行会と1964年東京五輪の入場行進の模様が交互に流れる映像は、私にとっては衝撃的だった。それぞれに何度も見てよく知っていた明と暗の極致のものが55年余りの歳月を経て私の中でドッキングしたのである。

  『二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。場内のもようはまったく変わったが、トラックの大きさは変わらない。位置も二十年前と同じだという。オリンピック開会式の進行とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押えることができなかった。天皇、皇后がご臨席になったロイヤルボックスのあたりには、東条英機首相が立って、敵米英を撃滅せよと、学徒兵たちを激励した。
(中略)
 オリンピックの開会式の興奮に埋まりながら、二十年という歳月が果たした役割の重さ、ふしぎさを私は考えた。同じ若人の祭典、同じ君が代、同じ日の丸でいながら、何という意味の違いであろうか。
 あの雨の日、やがて自分の生涯の上に、同じ神宮競技場で、世界九十四ヵ国の若人の集まりを見るときが来ようとは、夢想もしなかった私たちであった。夢ではなく、だが、オリンピックは目の前にある。そして、二十年前の雨の日の記憶もまた、幻でも夢でもない現実として、私たちの中に刻まれているのだ。
 きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれがおそろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ。』


 1925(大正14)年に生まれた杉本さんは、2017(平成29)年に91歳で亡くなられた。2020年元旦の毎日新聞「余録」は杉本さんの「あすへの祈念」を取り上げ次のように結んでいる【▲56年の歳月を経て東京五輪・パラリンピックの2020年がやってきた。その間に人類が戦争の悲惨から解放されたわけではない。だが作家の祈りはともかくもかなえられ、未来は私たちの手の中にある。】だが?と私は思った。コロナ禍で1年延期され無観客での開催を余儀なくされ、加えて幹部関係者の不祥事が続発した東京五輪をもし杉本さんが存命だったらどう感じただろう。その1年後には北京2022冬季オリンピックと相前後してロシアのウクライナ侵攻が始まり停戦の道筋が見えないまま、さらにイスラエルのガザ地区侵攻も加わりパリ2024オリンピックを迎えた。

 私たちの手の中にある未来は、杉本さんの祈りに応えられるだろうかと考えてしまう。2028年のロサンゼルス五輪の時、台湾有事も加わるかもしれない。というのが杞憂であってくれたらいいと強く思う。

 「平和の祭典」という美名のもとで一時的で人工的な安寧の陰で歴史は逆回転を始めていることを直視しないといけない。

 
 
コメント
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