梅雨に入った先週の山谷は雨だった。
雨になるとおじさんたちは首都高の高架下に列を作る。
一週間前に会ったHIVのおじさんを探したが、やはりに居なかった。
雨になると体調の変化や免疫力のことなどを気にして来ないのか、または傘を持って、外を歩けないのか、その理由は何一つ分からないが、彼には会えなかった。
傘を持たずに歩く82歳のおじさんに会った。
その後姿が自分にはあまりに孤独に見えたので声を掛けた。
もう耳も遠くなっているので大声での会話になった。
晴れた日もあれば、雨の日も、そして、雪の日もあるのが自分たちの生きている世界、その日ごとに、自分に映る彼らの姿は変わっていく。
その変わりようにも、自分のそれとまた相手のそれを同一視しないように、またそれらを超えて関わりを持てるように努める。
そうしたことを意識するために、自分はたまに退いて、全体を見ようとする。
誰がどう動き、どのような心持ちでいるのか、どのようにいるのか、おじさんたちもボランティアも、その全体を見ようとする。
そこには自分の知らない世界が見えてきたりもする。
そこには人の愛、思いやり、謙虚さ、また脅え、恐怖、不安、緊張なども見えてくる。
またそこに関わる自分の姿すら映し出されて来たりもする。
客観的に観ることにより、自分は冷静さを取り戻し、よりに謙虚であろうと試みなおすことが出来る。
祈りととも自分の内側から愛を引き出すのに必要な瞬間を得る。
自分が自分自身を観ることは不可能に近いだろうが、それを意識していけば、相手が観る自分を知る手がかりになりえるだろう。
そして、それは自分のあらゆる負の感情を超えることすら可能になるのではないか、また正してくれるのではないかと期待する。