少し前にこんなことがあった。
用があり、区役所に行った。
市役所の前のバスの停留所に小さい女の子と若いお母さんが居て、ベンチの上に立っているその子に対して、「座ってください」と優しく声を掛けていた。
その優しい関係の香る横を自分が通り過ぎた。
用が済み、区役所を出ようと自動ドアの方に向かう、そこにその親子が居た。
二人は自動ドアから入ってきた。
母親は一瞬左を向いていたその瞬間、小さな女の子の女の子の右手が自動ドアに挟まれてしまった。
その瞬間、自分は走り出していた。
十センチほど入り込んだしまった小さな手を挟む自動ドアの間を開けようした。
すぐには手は抜けず、その一瞬母親は「どうしよう・・・」と漏らした。
自分は持っていた荷物を落とし、「ちょっと待ってください」と落ち着いて言い、もう一度力を入れなおして、その隙間を広げると小さな子の手はそこからすっと抜けた。
それと同時に女の子は泣き出し、自分と母親は手が抜けたことに安心し、泣き出す女の子を抱き上げた。
その事態を見ていた二人の女性が近寄ってきて、泣き出す子供をあやそうと来た。
子供の手がどうにかなっていないことを確かめると、立ち去ろうとする自分に母親はあたふたしながらも何度か礼を言った。
その時、自分は母親と同じ気持ちになっていた。
それは女の子の手がどうにかならなかったか、どうしてこんなことにあったのか、自分の不注意だろうに、女の子は怖い思いを、痛い思いをしてしまったけど、大丈夫だよ、もう大丈夫だよ、女の子の恐怖と痛みを必死に引き受けようとしていた。
そこに居た母、子、自分の心は一致していた。
だが、女の子の手が挟まれたのを見た瞬間、自分は無意識だった。
良い行いをしようとか、どうにかしようとか、考える術もなく、すでに走り出していた。
これがフランクルの言う精神的無意識と言うものであろうと実感した。
フランクルは言う、誰にもこの精神的無意識はあると。
自分は思う、誰かが見守っている、必ずであると。
その場を離れて歩き出しても、しばらく、まだ緊張していた。
きっと母親の心もそうであろうと感じ思うと、そこから祈りが生まれてきた。
フランクルの言葉。
「愛するとき、私は自分を忘れます。祈るとき、自分のことなど眼中にありません。そして死ぬとき、同じようなことが起きるのです」
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