月末の炊き出しにはやはりおじさんたちは多く来た。
インドの学生たちはカレーを作る施設内では仕事がなく、先に白髭橋に行ってもらった。
彼らはおじさんたちを見て、その生徒のほとんどが「どうして彼らの子供は面倒を看ないか?家族はいないのか?」と言うことが気になったと引率してきた先生が自分に話してきた。
そこでこう言った。
「私たち、一人ひとりのそれぞれのドラマがあるように、彼ら一人ひとりにもそれがあります。ある人は精神病かまた人格障害を持つ人もいるでしょうし、ある人は刑務所とここを行き来を繰り返している、一人ひとりのそうせざるを得ない理由があり、ここに来ています」。
先生はそれを納得してくれ、学生たちに話してくれた。
引率のボランティアをしていた坂本君の友達には、こう言った。
「どうして?とその問題をその人の価値観で決めてしまえば、それはそれだけに映ってしまう。それは結局、おじさんたちを見ているのではなく、自分の想像、また価値観を見ているだけで実際の彼らを見ていないことになる。またそれにも気が付かない。自分の思いを超えて、そこを深く思いやること、彼ら一人ひとりを良く看ることによって、また何かを発見し、可能であれば、そこに愛を注ぐことも出来る。だけど、自分の考えだけで固まっているものには愛などは思いつかず、ただ表面的なことを感じ、勝手に解釈して、それで終わってしまう。それはあまりにももったいないことなんだよ。だから、良く見るんだよ。自分が何を感じているかに注意しながらね」
インドの子供たちにとっては、この状況はまずやはり理解するのが難しいだろう。
ヒンドゥーの場合は子供が親の面倒を看るのが当たり前、そして、その役は長男の絶対的な仕事である歴史のなかに育っているハイカーストの彼らには瞬時に「どうして?」と言うことになってしまったのだろう。
しかし、それは物事を自分の色眼鏡で見ていることに過ぎない、一人ひとりに愛を与えると言う視点から外れてしまっている。
分かったことを分からなくする、その答えを求めない、そこに何があるのだろうかと深く物事を見る姿勢と想像性、思いやりを意識し続けるのがやはり大切であろう。
だが、生まれて初めてこの光景を目にするものは、それに圧倒されてしまうのも事実かもしれない。
この日は月末と言うこともあり、570人のおじさんたちが来た。
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