毎週土曜日は山谷に行く電車の中で単行本を読んでいる。
最近は遠藤氏の「心の夜思曲{ノクターン}」を読んでいた。
そのエッセイの中で心に留まった話しを紹介しよう。
もう電車は山谷のある南千住に着きかけた頃だったにも関わらず、私はそのエッセイを途中を閉じることが出来ず、南千住に着いてからも歩きながら読んだ場面であった。
遠藤氏が三回の手術を受け、死をも感じた長い闘病生活でのことだった。
「立派な医者がいた。若い医者だがキリスト教の信者でそのため同僚から多少、つき合いが悪いと言われていたらしい。しかしある日、大部屋で突然、喀血した患者が咽喉に血をためて苦しんでいた時、この医者は自分の口でその血を吸い出してやっていた。
それは大部屋の患者はみんな目撃していたのだが彼が引き上げたあと、一人の男がポツリと言った。
{俺、あの人に手術をうけて、それで死んでも本望だね}
皆は黙ってうなずいた。ほんとうの名医とはこういうものであろうと私はその時思った。」
これを読んだ時、これは本当のなのか、もちろん本当であろう、だが吸引器はなかったのかとまず考えた。
しかし、この話は40年以上前のことである、その近くに吸引器はなかったのかもしれない。
では、この医者は患者の病気が移ることを考えなかったのか、私と同じようなことを考えた人もいるだろう。
ヘビに噛まれ、その傷口から毒を吸い上げているという話しを聞いたことがあるが、それもやはり良くないことであり、口の中には入れれば、その毒を何パーセントか、確かなことは分からないが吸収してしまうのでやらない方が良いということも聞いたことがある。
しかし、昔はこの手段しかなく、口で毒を吸い上げたのだろう。
こうした問いが生まれるが、この若い医者はそれらすべて超えて最良のことを我振り構わず行ったのだろう。
愛と言っても良いだろう。
この行為は私に西田幾多朗氏の言う「純粋体験」であり、フランクルの考え「いわゆる無意識だけが無意識だけではなく、意識そのものもその根底において無意識である。しかも、その無意識の状態こそ、意識がもっとも純粋に働いている状態」と言うことを思い起こさせた。
そして、何よりも、それを実際見た患者たちを深く感動させた医者と言うことは、何をどう言われようと変わらないのである。
その医者は一人を救いながら、実は大部屋の全員の患者の心の闇を払い、希望と何とも言えぬ安らぎを与えたのである。
それはまさしく無私の愛の力であろう。
私も思った、本当の名医は彼のような人であるだろう。