1997年撮影 中山南路付近
ここは中山南路なので、外灘(バンド)沿いだ。ここから南へ行くと誰でも知っている外灘の風景を見る事が出来る。これを撮影したのは1997年の12月30日の夕方で異常に寒かった日。三脚にカメラを乗せアングルを決めてカメラから離れて待つこと約30分ほどで、屑鉄拾いのオヤジが画面に入ってきた。こんな時、カメラのファインダーを覗いていると人はフレームの中に入ってこないのだ。
Noblex135U
1997年撮影 中山南路付近
ここは中山南路なので、外灘(バンド)沿いだ。ここから南へ行くと誰でも知っている外灘の風景を見る事が出来る。これを撮影したのは1997年の12月30日の夕方で異常に寒かった日。三脚にカメラを乗せアングルを決めてカメラから離れて待つこと約30分ほどで、屑鉄拾いのオヤジが画面に入ってきた。こんな時、カメラのファインダーを覗いていると人はフレームの中に入ってこないのだ。
Noblex135U
1997年撮影 福佑路付近
建築現場のプレハブで出来た飯場から撮影。人を画面に入れる為に相当待って撮影した。画面左の家屋にはまだ住んでいる人がいて、画面右には農民工が住むもうひとつの飯場が見える。この日は休日の為に解体作業はなかった。とある日本人が大地震の跡のようだと言ったが、言われて見ればそうも見える。
Noblex135U
1996年 豫園付近
レンズ回転式のパノラマカメラは大昔から数種類あったが、これらが好きになれなかった理由はレンズが回転する事による歪だった。もちろん当時は120フィルムを使い4x5用レンズを使ったアートパノラマやリンホフやフジなども含め数種のパノラマカメラが存在したので色々とテストしたが、結局この上海の古い街並みの路地を路地らしく記録出来るカメラはレンズ回転式のパノラマカメラNoblex135Uが一番適したカメラだった。当時は上海の路地裏に雰囲気が似ている月島でテスト。
レンズ回転式のパノラマカメラは1996年当時、日本製のWideluxF8やロシア製のHORIZONTがあったが、いずれもレンズの焦点距離が短すぎて広角レンズ特有の歪が目立ち過ぎ使いにくいのが難点。その点、Noblex135Uの焦点距離は29mmと他社のカメラより焦点距離が長ったのと、わずかだが5mmほどレンズをライズ出来たのも選択肢のひとつ。また、シャッタースピードが1秒から1/500まで選べる事が最大の売りだった。ただ、このNoblex135Uの最大の欠点は、レンズを回転させるモーターのトルク不足やフィルム傷など様々な問題あり過ぎのカメラだったので、輸入元には大変お世話になった。その後、この上海の撮影後には手放した経緯ある。そんな中、サブで使っていたWideluxF8は、南極でも使われていた実績があり、一番安定して使えるカメラだと断言出来るが、欠点はシャッタースピードが三種類しか選べない事。
画像は、上海に来たら誰でも必ず一度は行く豫園商城。
Noblex135U
1999年撮影 東門路
前世紀の上海の解体現場では、高価な重機を使えば楽に解体出来るのだが、経費が安く済むので農民工を雇い人海戦術で家屋を解体していた時代。今の解体現場では壁を作ってから家屋の解体が始まるが、当時はそんな事お構いなしだったので結構自由に撮影出来た。家屋の解体現場は、湿度の高い上海独特のカビ臭い埃が辺り一面に立込めたのを今でも覚えている。
Noblex135U
1996年撮影 ◯珠街弄
◯は日本の漢字無し。画面の左は廃墟で右はまだ現状のままだが、廃墟になるのは時間の問題。96年当時の移転補償金がどのくらい政府から出たのか忘れてしまったが、当然補償金だけでは上海中心部に家を買う事は出来ないのと、例え買えたとしても相当不便な地域でしか買えなかった時代。
96年に知り合った私の上海人の友人達は、日本のバブル時期に日本へ語学留学しバイトで稼ぎまくって上海に家を買った人や上海で商売を始めた人が結構多かった。当時の留学時代の話を聞くと、日本で一日バイトすると上海で一月分の給料と同額かそれ以上稼げたので夢のようだったと教えてくれた。
Noblex135U