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海上撮影家が見た上海2

上海で撮影活動をしている海原修平のBlog。「海上」とは上海の逆で、新しい上海という意味。更新は不定期。

老人の国

2025-08-26 | 遠い記憶 現代のレンズ

溝の口駅前で

 

ホントに増えたと思うなぁ、日本は老人が。上海の街を歩いていると若者の方が多いので、余計にそう思う。でもね、最近は若い人達が上海を離れる傾向にある。それは、物価と家賃高騰と賃金とのバランスの問題、そして経済落ち込み過ぎ。昔の中国国内では、新しい事をやるなら目指せ上海だったが、コロナ後からあえて他の都市で十分という人増えたのも事実。また、40歳過ぎると転職のチャンスが激減するような都市で生き残るのは大変。そんな事もあり、国営企業や公務員を目指す若い人が多いのも分かるような気がする。

今年の春に二週間ほど上海に滞在したが、あえてカメラを向ける場所がなくなった。つまり、上海でのテーマを見失ってしまったという事ね。ただ、地方には行きたい場所が数ヶ所あるが、何をどう撮るかテーマを決めないとただの旅になってしまう。

☆ブログ移転予定。

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2005年上海で反日デモがあった日

2025-08-06 | 遠い記憶 現代のレンズ

2005年上海(Canon EOS Kiss Digital N)

 

2005年上海(Canon EOS Kiss Digital N)

 

2005年上海(Canon EOS Kiss Digital N) 人着カラー写真

 

2005年上海 額の写真本人(Canon EOS Kiss Digital N)

 

2005年上海(Canon EOS Kiss Digital N)

 

2005年上海(Canon EOS Kiss Digital N)

 

過去の画像から

2005年の春に、上海で反日デモが続いた日に撮影した画像。この年の春は、淮海西路から新天地に近い元工場跡に事務所を移転してすぐの時期。デモ隊の通り道だった延安路から虹橋の日本領事館以外の場所は至って平穏。この大イベントのあった日は、原稿の締切もあり二日間で浦東や旧城内で撮影した。

今日の画像は日本カメラ社刊「EOS kiss digitalの使い方」ムック本の記事で使ったtif画像をLrで再度調整。本来はRAW画像から最新画像ソフトで再現像すれば更に画質は良くなるのだろうが、RAWデータは全て廃棄済み。デジタルカメラと画像ソフトの進化は早いので、RAWデータを保存しておけば最新のRAW現像ソフトで更に鮮明なデータに蘇る。このムック本の時に使ったカメラは、Canon EOS Kiss Digital Nとキットレンズで画素数は800万画素。Kiss Digitalのボディの耐久性はアマチュア用なので劣るが、日常使いでは全く問題ないレベルのカメラだった。

現在のデジカメは5000万画素オーバーが当たり前になっているが、もうこれはオーバースペック過ぎて私には全く必要ないセンサー。個人的には2500万画素で十分過ぎるけどね。フジの中判センサーは一億画素がスタンダードになっているようだが、是非とも5000万画素センサーを維持した機種を作り続けて欲しいなぁ。

☆福岡で災害用バッテリーを24時間充電し続けていて、リチウムイオン電池が爆発し火災。アホとしか思えないレベルの低い危機管理能力。一方で、ANAとTOPPANと菊地シート工業が、消火袋を共同開発の記事→コレ  これが進化し充電用ボックスを作れば、リチウムイオン電池関連の火災はある程度防げるかも。ちょっと期待したいニュース。熱波が続く日本も、リチウムイオン電池の充電は特別に気を使った方がよい。

 

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上海の浦東と浦西を遊歩道から

2025-06-01 | 遠い記憶 現代のレンズ

XF10-24mm f4 10mmで撮影 

 

XF10-24mm f4 10mmで撮影 

 

Sun Seeker 2021年12月21日太陽の位置

 

過去の画像から

外灘の遊歩道から浦西の建築を撮れたのは2010年上海万博前まで。その後に遊歩道が整備され植え込みが設置されたので、遊歩道から外灘の雰囲気を撮るのは難しくなってしまった。ただ、一箇所だけ撮る事が出来る場所がここ。もちろん遊歩道の下からは可能だがすべて建物を見上げなければならない。画像は人が少なく大気がとてもクリア理由は、新型コロナウィルス問題で人々が外出しなくなり車の交通量が激減した時期。

カメラはフジのH1でレンズはXF10-24mm f4の10mmで撮影したが、これは入稿原稿用なので65x24サイズにトリミング前提で撮影。本当はGFXで撮りたいフォーマットだが、GFX用の超ワイドレンズなんて持ってない。撮影した当時はDXOを使ってなかったのでC1でRAW現像したが、今回はDXOのPureRAWを使いレンズ収差補正をかけたので、周辺光量落ちもなく歪曲収差も補正してくれるので、その後の調整がとても楽。

スマホアプリの「Sun Seeker」は、太陽の位置を知るには必須アプリだ。このアプリは相当優れもので、日付を入れると過去や未来情報も知る事が出来、スマホのレンズを向けると3Dビューの実画像でも太陽の位置を見る事が出来る。あっ、それと「Moon Seeker」も便利。

☆日本は安くなった備蓄米を買う為に大行列。なんだか昭和の写真で見た戦時中の配給風景みたい。

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曇りの日は墨絵の世界

2024-05-16 | 遠い記憶 現代のレンズ

世田谷の砧公園で

 

こんな風景に出会うと、すっきり晴れた空より曇りの日の方が私の好み。Raw現像からグリーンフィルターを選んで現像し、最後にコントラスト調整。デジタルカメラのモノクロ専用機が良いという人もいるが、私は一生買わないデジカメ。

過去の墨絵の世界→コレ

☆海外で歯の治療を受けたが、その治療費の一部は日本の健康保険に入っていれば後で返還される。その手続きに役所に行ったが、役所側が慣れてないのか、その場で解決出来ず。本日16日に電話で詳しい指示が来て、再度役所に行く事に。国はマイナンバーカード登録を急いているようだが、役所の方がデジタル社会に追いついていないのはお笑いだよね。世界で一番労働時間の長いのが日本なのがよくわかる。

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2004年の上海の画像を発掘その2

2024-03-30 | 遠い記憶 現代のレンズ

 

虹口区は日本人が多く住んでいた地域 ここは魯迅公園から近い 2004年撮影

 

魯迅が住んでいた場所の隣の小路 山陰路2004年撮影

 

上海恋香の映画ロケで使った場所 山陰路2004年撮影

 

ダンスの先生 魯迅公園

 

前世紀の後半に私が日本から上海に定期的に通っていた頃に、漂陽路の小さなホテルを定宿として使っていたが、今は老人ケアホテルに。このホテルは私の親しい上海人の飯屋から歩いて1分の場所で、その店のコネで超格安価格で泊まれた。そして、その飯屋の家族と一緒に毎晩夕飯を食っていた。租界時代のこの虹口区付近は、魯迅や金子光晴が住み内山書店もあり日本関係の文化人が多く住んでいた地域。また、日本の陸戦隊本部や上海神社(戦後取り壊し)もあったので、租界時代は日本村とも言われていた。

 

山陰路 2000年撮影 Noblex135U

 

山陰路 2000年撮影 Noblex135U

 

山陰路 2000年撮影 TX-1 45mm f4

 

このイスラム建築は一時期に知恩院として使われていた 多倫路 2007年撮影 ピンホールカメラ

 

多倫路 2007年 ピンホールカメラ

 

十数年前のある日。小学生の頃にこの付近に住んでいたという日本人が上海に来て、もう一度思い出の場所を探して見てみたいという事で、その場所を一緒に探した事があった。起点は魯迅公園と内山書店の跡地。彼女が住んでいた場所は四川路ですぐに見つかったが、時々通っていた日本海軍の将校専用ホテルが見つからず山陰路の路地を隅々まで歩いた。彼女が子供の頃の記憶なので曖昧な部分も多いが、この付近の建物のほとんどが当時のまま残っていたので過去の記憶が徐々に蘇って来たようで、彼女が突然この奥かも知れないと言い出し向かった先は、この路地の一番奥の行き止まりの場所。人間の記憶というのは、視覚や匂いなどの五感をきっかけに脳内の奥から突然蘇るという事を聞いた事があるが、今回は正にそれだった。

辿り着いた建物の入口は中が見えないほどのコンクリートの高い塀があり、小さな出入り口のドアを叩くと中から人が出てきた。過去の事情を話すと私達3人を中に入れてくれ、歓迎してくれた。中庭部分と建物を見た瞬間に、日本人の彼女の目が輝き過去の記憶が一気に蘇ったようだった。当時招き入れてくれた親切な上海人女性はお茶まで出してくれ、話を聞くと定年退職(女性は50歳が定年)したのでこの家の一室を買い数年前から住んでいるそうだ。この日本軍の将校専用プチホテルだった家は、日本人が設計し建てた家なので、丈夫で作りも良く安心して住めるのでとても良い買い物をしたと言っていた。上海の古い建物の内部を見る時に、特徴的なのは階段の手すりを支える1本目の柱のトップだ。それを見ると、確かに菊の紋が柱の頭に刻まれていたので、ここが海軍の将校専用のホテルだと確信した。

☆この付近は日本海軍陸戦隊だったビルも現在残っていたり、終戦後に取り壊されたが上海神社もあったそうだ。また、金子光晴が住んでいた家が今も残っているが、今は地元の住居に。現在の上海で日本人街だった痕跡が残っているのは、この魯迅公園付近が一番多い。

 

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