図書館問題研究会全国委員会が「 「表現の不自由展・その後」への脅迫と介入を強く非難し、表現の自由を守るためのアピール 」を出した。「富山県立図書館図録問題」を詳述している。「社会全体で暴力から表現の自由を守るという民主主義社会にとっての原則ですら、現在の日本社会では共有されていないことに慄然とせざるを得ない」。民主主義の原則を忘れてはならない。
今回の企画展では、天皇制に関わる作品である大浦信行の『遠近を抱えて』『遠近を抱えてPartII』が展示され、「不敬」だとして中止圧力にさらされた。この作品は、「図書館の自由」に直接関わる「富山県立図書館図録問題」を過去に引き起こしている。(中略)この事件は、公共図書館が正当化され得ない抗議に膝を屈して資料を保存・提供できなかった事例である。今回の企画展も、その中止決定が異常な抗議、恫喝、脅迫に耐えられなかったことを理由としており、その点で酷似している。このような介入と作品・著作物の公開中止を繰り返してはならない。
恫喝や脅迫による企画展の中止について、主催者・運営者にのみ、その対応コストやリスクを負わせることは誤りである。今回の企画展においては、「脅迫は良くないが」と言いながらも、実質的に表現の自由に介入し圧力を亢進するような言説が政治家を含め広く拡散した。社会全体で暴力から表現の自由を守るという民主主義社会にとっての原則ですら、現在の日本社会では共有されていないことに慄然とせざるを得ない。
以下、全文
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「表現の不自由展・その後」への脅迫と介入を強く非難し、表現の自由を守るためのアピール
2019年9月2日 図書館問題研究会全国委員会
私たち図書館問題研究会は、図書館の発展を願う図書館員や研究者、住民で組織する個人加盟の団体である。 図書館問題研究会は、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」内の企画展「表現の不自由展・その後」が脅迫と介入により、中止に追い込まれたことに強く抗議する。また、今後の「表現の不自由展・その後」の再開を願うものである。
図書館は、表現・思想の結晶である資料を収集・提供する機関であり、蔵書への介入も過去たびたび起こってきた。私たち図書館関係者にとっても、今回の企画展への脅迫と介入は他人事ではなく、あらためて表現の自由の危機について広く訴える。
「表現の不自由展・その後」が、展示に反対する人々による度を越した抗議や脅迫、恫喝、犯罪予告がなされ、わずか3日で中止に追い込まれた。また、複数の政治家・自治体首長が、展示の内容に反対する立場から展示の中止要請や補助金の「精査」などに言及し、介入的に振舞っている。
企画展に対するガソリンによる放火を示唆するような脅迫は犯罪行為であり、適正な捜査と処罰が求められることは言うまでもない。それと同時に、こうした脅迫や暴力的な抗議活動の背景となっている動きについても強く批判する。
私たちが問題にするのは、まず、公立の芸術祭に露骨な政治介入が行われたことである。憲法21条で保障された表現の自由はとりわけ、国や地方自治体など公権力が表現や思想に介入することについて、これに対抗するために使われる概念である。公人たる政治家の介入をも表現の自由に含める一方で、公立の芸術祭の内容には介入できるなどとする言説は致命的に誤ったものである。また、事前検閲ではないにしても、結果的に脅迫や恫喝によって中止に追い込まれた顛末を見れば、政治家の言説が事実上の検閲として作用し、今後の美術展など表現の自由について萎縮効果をもたらす大きな危惧がある。こうした介入を容認すれば、政治家が図書館の選書・蔵書に政治的・恣意的に介入することを防ぐこともできなくなる。
次に、政治家が介入の理由として言及し、またSNSやテレビ番組でも以下のような言説が多数拡散している。「反日的な展示に公金を投入するのはおかしい」「展示は日本人の心を踏みにじるもの(だから介入はやむをえない)」「私的な展覧会で行えばよいので、介入は表現の自由の侵害ではない」「展示によって、自治体がその内容に賛成したことになる」「展示は日本(人)へのヘイトである」「展示は芸術ではなく、政治的プロパガンダだから規制してよい」。こうした言説は、誤っているばかりか、表現の自由に重大な悪影響を与えるものである。
個別の表現について議論し、時に批判することはもちろん重要だが、明白な人権侵害や差別扇動がない限りは、その表現へのアクセスが確保されることが議論や批判のために必要である。また、公金で運営されているということによって、表現の自由への介入がよしとされるのであれば、芸術祭だけでなく、あらゆる公立美術館、博物館、さらに公立図書館や大学などでも表現・思想・学問の自由に政治的な介入が可能となるだろう。
図書館では、戦前はもちろん、戦後においても様々な理由から蔵書の収集、保存、提供に介入する事件が発生してきた。これは、政治的な蔵書への介入から、図書館員による恣意的な蔵書廃棄まで様々な理由によるが、いずれも厳しく批判され、再発を防がなければならない。図書館業界では「図書館の自由に関する宣言」を日本図書館協会において採択し、全ての図書館関係者がこれを守るべく努力している。
今回の企画展では、天皇制に関わる作品である大浦信行の『遠近を抱えて』『遠近を抱えてPartII』が展示され、「不敬」だとして中止圧力にさらされた。この作品は、「図書館の自由」に直接関わる「富山県立図書館図録問題」を過去に引き起こしている。『遠近を抱えて』は、1986年に富山県立近代美術館で行われた展覧会に出品されたが、展覧会終了後に県議会で批判され、非公開となった。本展の図録『’86富山の美術』も非公開となり、1993年美術館は作品を売却し、図録を焼却した。一方、この図録は、県民がこの事件について検討を行うためにも、富山県立図書館にとって郷土の資料として収集・保存・提供を行うべき著作物である。富山県立図書館は当初「当分のあいだ」閲覧や貸出をしないと決定していたが、1990年3月より富山県立図書館は当該図録を制限付きで公開した。その際、最初の閲覧者であった県内在住の神職が図録の該当作品部分を破り捨て、その場で逮捕された。その後、富山県立図書館は当該図録や関係資料を収集・所蔵しないとする方針を決定した。富山県立図書館は、図書館の正常な利用環境を確保するためにこの措置を取ったとし、図書館が抗議に耐えられないことも理由として挙げられた。この事件は、公共図書館が正当化され得ない抗議に膝を屈して資料を保存・提供できなかった事例である。今回の企画展も、その中止決定が異常な抗議、恫喝、脅迫に耐えられなかったことを理由としており、その点で酷似している。このような介入と作品・著作物の公開中止を繰り返してはならない。
恫喝や脅迫による企画展の中止について、主催者・運営者にのみ、その対応コストやリスクを負わせることは誤りである。今回の企画展においては、「脅迫は良くないが」と言いながらも、実質的に表現の自由に介入し圧力を亢進するような言説が政治家を含め広く拡散した。社会全体で暴力から表現の自由を守るという民主主義社会にとっての原則ですら、現在の日本社会では共有されていないことに慄然とせざるを得ない。
表現の自由は、今まさに危機に瀕している。今回の事件を座視すれば、全く同じ論理で図書館やその蔵書が圧力と介入にさらされるだろう。それは、「図書館の自由に関する宣言」の主文にあるように、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ住民に、資料と施設を提供するという図書館の重要な任務を果たせなくなることを意味する。また、「図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る」と同宣言では謳われている。しかし、図書館の自由が侵されたとき、図書館員だけが団結しても、十分な力は持ち得ない。
私たちは、今回の企画展の関係者を含め、表現の自由を守るべくたたかう全ての人々と連帯し、「表現の不自由展・その後」に対する脅迫と介入に強く抗議する。また、今後の「表現の不自由展・その後」の再開を願うとともに、表現の自由の危機について広く訴えるものである。
http://tomonken.sakura.ne.jp/tomonken/statement/freedom-of-expression/?fbclid=IwAR1qDZP-JJ2rwgUe-Fmq1Zx2_sQppVYObCPEqJbrxUdg8W7LYwNhzn8cZLA
「図書館の自由に関する宣言」 ↓
http://www.jla.or.jp/library/gudeline/tabid/232/Default.aspx
写真は、サンクトペテルブルグの児童図書館。クマは常にいるらしい。