ピルスナーウルケル飲みける。つい古語っぽい言い回しになるのは、金色に澄み渡るピルスナービールの元祖がこのピルスナーウルケルと言われてるから。チェコのプルゼニで1842年に作られ始めたというから、日本では江戸幕府が株仲間を解散させて天保の改革を行う世も末だった。
チェコは1人あたりのビール消費量がドイツの2倍ほどもあり、世界一の座を30年近く占めているというから街の様子を見てみたい。日本人の5倍ぐらいビール飲んでる計算になる。最近アサヒビールの扱いになったからピルスナーウルケル飲める店が増えた。イタリアのナストロアズーロも同様。
しかしながら日本じゅうマンボウが出ている状況では20時にアルコールがラストオーダーになってしまうので、この日はとどめにスーパードライのいちばん大きいのを注文する流れになった。アサヒビールのビアホールにすべり込んだから、最後は当然そういうことになってしまうのだった。
ちゃんと品質管理と温度管理してるビアホールでおビールを飲むとおいしい。それもあるけど緊急事態宣言とかマンボウとか出ちゃうと酒をゆっくり嗜むゆとりが消えて時間制限ぎりぎりにリットル単位でおビール流し込む機会が多くなり、ビアホールにすべり込むことがコロナ以前よりも増えた。
そんなことばかりしていると「ビールは酒じゃない説」があるのを思い出しちゃう。酒飲みがよくそんな話をするけど、禁酒法時代のアメリカでは薄いビールが酒じゃないとして許容されたらしい。薄いってどれくらいか調べたらアルコール度数4%までだそうだから、日本のおビールはだいたい酒。
タイムリミットが迫ってくるとキングサイズのジョッキなど頼んで閉店間際までそれを飲む計画を遂行する。庶民のささやかな楽しみも感染状況によってはビアホールが休業に入り、ままならなくなってしまう。昨年などは結構そういう期間が長く続いて仕事帰りに立ち寄る場所がなく途方に暮れた。
あるときサッポロライオンの壁の張紙をじっくり読んだら、日本初のビアホールは明治32年8月4日オープンの「恵比壽ビヤホール」(現銀座8丁目)で、この日をサッポロライオン創業の日としているそうだ。明治44年8月10日には「カフェー・ライオン」(現銀座5丁目)を築地精養軒がオープン。
大正7年7月5日に銀座7丁目の直営ビアホールがオープン。大正12年9月1日の関東大震災で「カフェー・ライオン」が倒壊し、やがてバラックの平屋建てで営業を再開。昭和6年8月30日に「カフェー・ライオン」が大日本麦酒(現サッポログループ)の直営になり、ビアホールとして営業開始。
そういえば大正から昭和の初めごろカフェーがエロの巣窟として銀座で遊ぶ男たちの欲望の的だったと聞いたことがある。関東大震災で大打撃を受けて、日本で2番目のカフェーもビアホールに身売りせざるを得なかったということらしい。ところで「唄わせてよ」少女って一体なんだろう?
昭和9年4月8日に現在もあるライオン銀座7丁目店が煉瓦の建物でオープン(当時は『銀座ビヤホール』の名称)したので、あそこは今年で88年ビアホールとして変わらず営業してるわけか。もっとも、敗戦後まもなく進駐軍専用ビアホールになって昭和26年12月31日まで一般人は入れなかった。
おかわり!
あ、閉店ですか。
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