サ カ タ の ブ ロ グ 

やぁ、みんな。サカタだよ。

山手線

2024年09月01日 | サカタだよ

「電車に乗るがいいさ」と漱石の小説『三四郎』に出てくる与次郎が、大学の講義をいくら聞いてもつまらないから「電車に乗って、東京を十五、六ぺん乗り回しているうちにはおのずからもの足りるようになるさ」と三四郎に勧めたことが記憶の片隅に残っていて、ときどき山手線に乗って東京をグルグル回る。しかし『三四郎』が書かれたのは1905年(明治38年)だから、考えてみれば山手線でグルグル回ることなど当時できやしなかったはず。

調べてみたら現在のような環状線になったのは1925年(大正14年)なので、とっくに漱石は没している(1916年12月9日が命日)。それじゃ三四郎はどこを乗り回したのか、あらためて小説を読みかえすと「四丁目(本郷?)から電車に乗って、新橋へ行って、新橋からまた引き返して、日本橋へ来て」そこで降りて料理屋に上がったり木場の寄席で小さんの落語を聞いたりしてる。どうも、ちんちん電車のようだ。

「生きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ」と漱石が小説に書いた当時とまったく似ても似つかないコースになるけど、まあ電車が一番の初歩でかつもっとも軽便だというのは120年たった今も変わらない。ある日もういちど山手線を一周してみようと思った。

 

東京駅には線路のキロ数を測定する起点が置かれて、東京駅から出る列車はすべて下りであり、東京駅に着く列車はすべて上りであるというのだけど、東京駅が開業したのは大正3年(1914年)12月20日だから、日本に初めて鉄道が開業した明治5年(1872年)9月12日からの42年間はどこを起点にして上り下りを定めたりキロ数を測定したりしていたのだろう?

上野がノガミで新橋がバシンと呼ばれたころ有楽町には「ラクチョウのおとき」と呼ばれる女がいた。戦時中は女子挺身隊員だったが戦後ラクチョウのガード下でパンパン(街娼)となり人望を集めて遣り手(管理職)になった人。フランク永井がうたう「有楽町で逢いましょう」やラジオドラマが評判になって映画化された『君の名は』も有楽町だから、戦後まもない頃は押しも押されもせぬ歓楽街だったんだろう。銀座への玄関口だし。いまは街娼も新宿とかに移動してるようだからラクチョウのおときがいた当時の面影はどこを探しても見つからない。

汽笛一声新橋を(鉄道唱歌)でおなじみ新橋駅はこの場所ではなく貨物駅だった汐留駅のあったところ(現在は電通とか建ってるあたり)で、いまの新橋駅はもともと烏森駅だ。明治5年(1872年)新橋横浜間を日本で初めて鉄道が結んだときの新橋もいまの新橋駅ではなく汐留駅になったほうの新橋駅だろう。あんな外れが明治時代は東京の玄関口だったとは。

浜松町駅に直結した世界貿易センタービルは9・11アメリカ同時多発テロで瓦解したビルと同名で英語表記もまったく同じWorld Trade Center Buildingだったのに取り壊されて跡形もなく、ニッポン同時多発再開発テロにあったようなものだ。ここから海側にちょっと歩くと竹芝桟橋があり、小笠原島航路の船が出るのだが、竹芝という名は平安時代の更級日記に出てくる竹芝寺に由来するらしい。ちょっとびっくり。

田町駅と品川駅のあいだは確かに間隔が大きかった。そこに出来たへんな名前の高輪ゲートウェイ駅は結局なんのゲートウェイなのか何年たっても存在感ない。高輪大木戸のことじゃないだろうな……それだったら高輪大木戸駅でいいもん。短くするなら高輪門駅でいいもん。江戸の出入口として夜は閉められた門。大奥の局だろうと物見遊山で遅刻すると締め出された門。

品川駅からちょっと歩くと江戸名所図会で江戸の禅宗四か寺に数えられた東禅寺がある。幕末にイギリス公使館にあてられて尊王攘夷派が2回も討ち入りした、血なまぐさい寺。150年かそこらで人心は変わり、テロはもちろんよくないとしてデモさえ禍々しく思う向きなど献身的なボランティアすら排除するし、まったく行動を伴わない発言もタブー視する。それでいて忠臣蔵の討ち入りは賞賛するから矛盾してる。ちょうどよくならないもんだろうか?

大崎駅を出て目黒川を越えると御殿山と呼ばれる丘が建物に埋め尽くされてる。御殿山は徳川家康が豊臣家の淀君を人質として迎える策をめぐらし、ここに御殿を建てたから御殿山というらしい。人質にするまでもなく大坂夏の陣で権力争いが決着ついてしまった。幕末にアメリカの黒船を討伐する砲台を据えるお台場を海に築かんがため、御殿山の土を崩して使ったというから、あまり山という感じがしないのはそのせいもあるのかも。

品川・大崎・五反田のあたりで山手線は盲腸のように垂れ下がり、ここをピンと張ったら環状線らしい円形に近づくのにといつも思うけど、そもそも山手線全体が丸くもなんともない葉っぱのような形だから部分的に南へ尖ってても構わないといえば構わない。まだ市電があったころは猿町と呼ばれる駅が盲腸の根っこにあったようで、サルマチというよりエテマチと呼ぶ人が多かったけど高輪台と改称されてからエテマチなんて呼ぶ人はどうやら絶滅したっぽい。

目黒駅は品川区にあるという話は有名だし目黒のさんま祭は目黒区でも品川区でも催されるとかいう話が秋になると毎年ささやかれる。目黒川だって古くは品川という名前だったらしいから目黒と品川の関係ってややこしい。品川区にある目黒駅のホームは切り通しの中に位置して山手線が山の手を通る実感がわきやすい駅だ。恵比寿なんかもホームの端と端の立地の高低差がすごく山の手という感じがする。渋谷は谷だから全体が高架だ。

そうそう、1周するまで続けるつもり。恵比寿駅はエビスビールの工場の出荷のために作られた駅だから発着時の音楽もエビスビールのCMソングのメロディーだったりする。会社としてのエビスビールはサッポロビールに吸収されて工場跡地の恵比寿ガーデンプレイスにサッポロビールのビルがある。恵比寿の駅ビルの壁面パネルは恵比寿(YEBISU)のYの字をデザインしたものだそうだ。30年ほど前に聞いたときは確かにYだと思ったけど、いまでもYに見えるかどうかは関心を持って見たことないからわからない。

春の小川はさらさらゆくよ、という童謡は渋谷駅のあたりを歌ったもので、のどかな土地に初めて山手線の駅ができた明治18年(1885年)は渋谷川の水車小屋でまだ水車が回ってた。そんなところが無計画に急速な発展を遂げたから渋谷は以前から入り組んでわかりにくい繁華街だったけど、再開発で道をつけ替えたりして余計わかりにくい。もう行かない。駅自体もアリの巣のような迷路になって不便だからもう降りない。できるかぎり回り道する。(実際やってる)

原宿駅には皇族専用ホームが明治神宮側にある。明治神宮は明治天皇を祀る神社で明治天皇の誕生日は国民の祝日になっている(文化の日)。昭和天皇の誕生日も国民の祝日になっている(昭和の日)のに、大正天皇の誕生日が国民の祝日になってないのはなぜだろう。どうしてなんだろう。平成の天皇の誕生日も国民の祝日になってない。なぜだろう。どうしてなんだろう。

代々木といえば練兵場まで遠足に行った思い出を語る人が昔はよくいた。世代が変わって今のお年寄りの中には代々木といえば共産党を思い出す全共闘の経験者も多い。学生運動がなりをひそめてノンポリばかりになった80年代から代々木といえば予備校のイメージだったけど、もしかしてその後アニメーション学院のイメージになってたりするんだろうか。しかしながらアニメーションも衰退してインボイス制度でトドメ刺されそうだしクールジャパンは大手広告代理店が中抜きするだけでアニメに益さない。予備校生は減るばかりで練兵場はもうないから代々木に残るのは共産党ぐらいか。

鳥取県の人口と新宿駅の1日の乗降客数がほぼ同じってバブル期に聞いたことがあるから現在は新宿駅の乗降客のほうが多いのではないか。駅は人がごった返してるけど都庁のほうだと夜はホームレスばかり……彼らの生活保護もしないで、2年で48億円も注ぎ込んだプロジェクションマッピングもどきはオリンピックの不正がバレて公共事業の受注が禁止になっている大手広告代理店の関連会社がなぜか請け負い中抜きした結果お粗末な出来になっている。オリンピック中抜きしすぎて開会式ショボかったのと同じ。どこへキックバックしたのかな? 当然あの人か。

小泉八雲、島崎藤村、若山牧水、国木田独歩、葛西善蔵といった人たちが新大久保駅の近くに住んでいた。といっても、みんな明治の後期だから山手線の新大久保駅が大正3年にできる以前のことで、目と鼻の先に明治22年にできた中央線の大久保駅の近くで暮らしたといったほうがいいのだろう。新大久保駅ができた後に越してきたのは、滝井孝作、折口信夫といった人たち。文士が借家に入りやすいところだったようで、いまは文士の代わりに外国人が暮らしやすい土地柄になっているようだ。

「ばば」は「たかだ」か「たかた」か議論になることがある。そっちよりむしろ昔は「ばんば」だったらしい。もともとの呼び方は「たかだのばんば」……ばんばひろふみという人もきっと漢字で馬場と書いて「ばんば」なんだろう。ヒット曲は「SACHIKO」だったかな? ばんばには手塚プロがあって治虫氏の没後に一度いったことがある。いまも同じ場所にあるのだろうか? 中央温泉研究所というところにも行ったことがある。同じ方向だったと思う。

目白といえば今太閤と呼ばれた人の娘が自民党の裏金の実態をマスコミの前でしゃべったら目白御殿に火がついた。口封じだろうか。ガチャンと音がして線香の火を消し忘れたと思い確かめに行ったら燃えていたという。線香なんかつけておくものだからガチャンという音が原因と考えるのが先だろう。窓ガラスの割れるような音……おそろしい犯罪者がいたもんだ。

人道に反する罪で絞首刑になったり反共の役目を担わされて無罪放免になったり運命が大きく分かれた戦犯が収容された巣鴨プリズンの跡地が池袋サンシャインシティだということを、池袋駅に降りても思い出すことが少なくなった。思えば無罪放免になったA級戦犯の家系と所属政党が統一教会(=勝共連合=世界平和統一家庭連合)に便宜を図ったことで国を傾けた。いまも癒着して改憲を目論む反社会集団であることは、なるべく忘れないようにしないと。

路面電車が山手線と交わるところにある大塚駅の周辺には昔、教育大学があり、茨城に移転して筑波大学になったとか。おにぎり屋さんのぼんごに長蛇の列ができてたので回れ右して帰ったこともある大塚駅。あと江戸一で飲んだとか、そんな思い出しかない大塚駅。小石川植物園にも行ったことあるかな。雑司ヶ谷霊園に行くとき路面電車に乗り換えたこともあるか……とにかく夏目漱石の墓が異様に巨大だった。
 
 
原宿の竹下通りに若者が集まりラジカセで踊ったりしてたころ、おばあちゃんの原宿と呼ばれた巣鴨には何度か行った。とげぬき地蔵とか。若かったせいかピンとこなかったけど、はるかな時を超え、おじいちゃんに近くなった今もやっぱりピンとこない……。まいっか。
 
 
駒込駅から歩いていける勝林寺という寺に田沼意次の墓があって、どんなもんか見にでかけたことがある。経済成長という現代ではとかく掛け声だけになりがちなことを武士と百姓の世の中で実行したために粛清されたかわいそうな人……。これからは見せかけの成長(=中抜き)に頼らない舵取りが必要な世の中になることは間違いないとして、先覚者が実行すると固陋な勢力に邪魔されるんだろうな。有能な田沼父子のように。もっとも時間の流れは変えられないから忘れた頃に逆転するんだろうけども。文明開花のときみたいに。もういっぺん世の中の仕組みがひっくり返るのにどれぐらい時間かかるのかなと、山手線が駒込駅に差し掛かると大体いつも思う。見届けることはないかも。
 
 
漠然とした不安を感じて芥川龍之介が昭和2年に自殺したのは田端だった。その場所に行ってみたことがある。大正3年から住んでいたそうだから仮住まいというより本腰が入っていたようだけど今やとくに名残もない。室生犀星、滝井孝作、菊池寛、萩原朔太郎、堀辰雄、佐田稲子なども田端に住んだ。訪ねてみても実感がわくことはなかった。
 
 
西日暮里駅は昭和46年(1971年)に開業した山手線内でいちばん新しい駅だった、高輪ゲートウェイ駅とやらが反対側にできるまでは……それにしても日暮里という寂しい駅名にさらに西をつけると寂しさが増すことを誰か指摘しなかったんだろうか。イエスマンばかりで止める人がいなかったのは高輪ゲートウェイ駅の場合と同じらしい。西日暮里、寂しいこと限りなし。
 
 
日暮里駅にくっついた谷中霊園に五重塔があったらしい。跡地を見たことある。幸田露伴が小説に書いた五重塔は最初、ぼんやり読んだときは明治の話ぐらいに思ってたけど再読したら江戸時代の職人のことを書いたものだった。露伴が谷中に住んだころ五重塔はまだあった。戦争でも焼けなかったのに戦後ばかみたいな痴情のもつれで炎上した。露伴はとっくに没していた。あゝ無常。
 


おそれいりやの鬼子母神は鶯谷駅の近くの入谷の鬼子母神で、雑司ヶ谷の鬼子母神ではないそうだ。確かに雑司ヶ谷ならおそれぞうしがやの鬼子母神になって、たいそう語呂が悪い。鶯谷で鳴く鶯とはどんな鶯かイメージすると昔はごく普通の鶯が可憐にさえずったんだろうけど今や老嬢のイメージしか湧かないのは自分だけ? 偏見か。
 
 
江戸の頃はどうだか知らないが東京といえば震災より前は上野と浅草だったっぽい。戦後も浮浪者や浮浪児といえばまず上野だったようだし闇市が立つぐらいなので繁華街だったんだろう。とっくに新宿や渋谷はおろか池袋にも水をあけられて、昔日の賑わい今いづこ。官軍が錦の御旗を掲げて彰義隊を討ち果たし徳川の菩提を弔う寺域を焼き払った場所に、動物園や美術館博物館が立ち並ぶので、いまもわりとよく行く。(行くんかーい)
 
 
アメ横を歩いてたら御徒町駅にすぐ着いてしまう。焼け跡の闇屋をイメージして歩くと不思議な気持ちになる。ちょっと行けば湯島天神に着いちゃう。弥生式土器が発見された弥生町も近い。縄文が物に即した名称なのに弥生は地名だからアンバランスな呼び方だ。縄文から弥生への移行には首をかしげる点が多く、本質的な差異なんかないのではと思うこともある。日本人が日本人でありたいがための信仰みたいなものかと思ったり。
 
 
秋葉原駅は秋葉神社の原が名前の由来ならアキバハラと読みそうなものだけと実際はアキハバラで、しかし略称アキバ。どっちなんだ秋葉の読み。戦後、神田の各所にできた闇市が次第にラジオ部品を扱う専門店になり、それらが露天整理令でガード下に集められたのが家電の街に成長し、パソコンの街になったと思ったら、いつしか萌え系の街に変わってた。なんでそうなるのかな!
 
 
東京駅から山手線の外回りの列車に乗ると最後が神田駅だ。どっちが外回りで、どっちが内回りか考え出すと目が回る。各駅の駅名表示を写真に撮ろうとするとホームの両端のほうと中央の3か所程度にありそうなもんなのに実際はどっかの端などに1か所しか掲げてなかったり、よくて真ん中へんに1か所だけだったりする。いまどきは列車のドア上に親切な表示が複数の言語で表示されるから駅に掲げなくても事足りるのかも。ローカル線だとこうはいかない。はず……確かなことはわからないけれど。
 
 
【これで1周おしまい】
 
 
コメント
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