ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




金商ビル本館。中央区日本橋茅場町2-10。1986(昭和61)年1月

新大橋通りの新場橋-新亀島橋の通りとの交差点の角にあったビル。現在は1989(平成1)年に竣工した住友生命茅場町ビルになっている。写真左の3階建てのビルは「金商興産株式会社」、その裏手は「金商倉庫株式会社」がある。『総覧』では「金商ビル本館旧館(旧茅場ビルディング)、日本橋茅場町2-8(現日本橋茅場町2-10)、昭和4年建築、構造=SRC6、設計=宮川守蔭、施工=久留弘文(映成社)、備考=東洋ホテル、S36増築(大成建設)葉書による回答」。
東洋ホテルとして1929年に建ったビルだった。 『東京のホテル』というサイトに「昭和4年に「御園ホテル」、昭和5年に「電気ホテル」(上野)、「東洋ホテル」(茅場町)が開業したと「日本ホテル略史」には記述がありますが、これらのホテルの詳細は前述の書籍の中にも無く、ラベルも「東洋ホテル」くらいしかみたことがありません。」とある。また、東洋ホテルの社員だった方が「1942(昭和17)年、戦争拡大のため東洋ホテル閉鎖、丸の内ホテルに転職。」と記録されている( 『片山春宵』)。
金商は『ウィキペディア』によると、戦後の財閥解体に伴い三菱商事の非鉄金属部門を継承して1947(昭和22)年に設立された会社。1960(昭和30)に又一株式会社を吸収して「金商又一株式会社」を称した。写真右のビルにその社名の看板がかかっている。このビルが昭和36年に増築したという部分かもしれない。金商は2006(平成18)年に三菱商事の子会社に復帰し、2009(平成21)に「三菱商事ユニメタルズ株式会社」と改称しているそうだ。


1986(昭和61)年6月8日

一枚目の写真の左端の2階建ての建物のあたりが、明治16年に開店し昭和19年まで続いた偕楽園という中華料理の料亭があった場所である。明治期は他に中華料理を出す店などなくて、著名人も多く来店して有名だったらしい。偕楽園の笹沼源之助という人が谷崎潤一郎と親友で、家業が傾いてきた谷崎を援助した。二人が知り合ったのは1892(明治25)年(谷崎6歳)、坂本小学校に同期で入学したからで、以来、生涯付き合った。『幼少時代』(昭和32年刊行)には「偕楽園」と「源ちゃん」の章がたてられてわりと詳しく述べられている。
昭和33年(谷崎73歳)、中央公論の企画で谷崎は「ふるさと探訪」をする。『谷崎潤一郎東京地図』(近藤信行著、教育出版、1998年)によると4月5日のことで、そのときの写真は中央公論1958年6月号のグラビヤ15ページを飾ったという。京橋2丁目の中央公論社を車で出発して、偕楽園跡、坂本小学校、南茅場町の住居跡、日枝神社、兜橋、浜町河岸、水天宮、人形町通り、生家跡、明石町と巡っている。

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