ひょいと自転車に乗って・17
自転車に乗れると世界が広がる。
京ちゃんに言われて乗れるようになった。 世界って言ったら笑われるかもしれないけど、わたし的には世界は広がった。
東大阪市との境目まで行って、府道21号線が飛行場の滑走路だったことも発見したし、当分行くことはないだろうと思っていた外環状線の向こうにも行ってみた。 あちこち走っているうちに、気が付いたら風になっている自分に気が付いた。
そう、自転車に乗れると風になれるんだ!
たとえ無風でも、ペダルをグイグイ踏み込んで時速二十キロくらいになると、空気が質量を持って挑みかかってくる。 髪をなびかせ、体中で空気の流れを感じて、制服のスカートをはためかせ、ぐんぐん走る。
すると、瞬間、風になった自分を感じる。
客観的には、大気の底、密度の高い空気の中をかき分けかき分け進んで空気抵抗を感じているだけなんだけど、なんせ自分がペダルを漕いでいる。 ここが大事。 もし、バイクや自動車に乗せてもらって風を感じたとしても、その風はよそよそしい。 風がきついなあとは思っても、風になったんだとは思わない。
十四歳にして初めて感じたってか発見した『風になったわたし』が嬉しくて、ついかっ飛ばしてしまう。
八尾の街は住宅街が多いんだけど、車の通りの少ない幅広の道もある。学校の帰りに天邪鬼の虫が起こって逆方向。 市民体育館前の四車線。 ぐんぐん走ってみぞれが降ってきて、その冷たさが上気した頬っぺたに気持ちよくて、さらにペダルを漕ぐ。 わたしの中に溜まっていた諸々のアレコレが皮膚の表面まで引っ張り出される。 アレコレは体や心の中に淀んでいた、それが風になった体から吹き飛ばされて行く。 いつもは意識の底に滓(おり)になっているアレも、もうちょっとで吹き飛ばされる。
――もう少し! もうちょっと!――
その日、わたしはとびっきりの風になった。そして、とびきりの風邪になってしまった。
「えーー、その薬はやだ!」
三日たっても下がらない熱に、お母さんは禁断の薬を手に取った。
「ダメよ、今日で丸三日の熱なんだから!」
そう言って、お母さんは布団をめくって挑みかかってきた。 三日目の熱で抵抗力が無くって、お母さんになされるまま。 必死にパジャマの下を掴んだんだけど、抵抗虚しくお尻がむき出しにされる。
「薬って口から飲むもんでしょ、摂理に反してる、ムッ、ムムムム……😠」
お尻に薬を入れられ悶絶する。こんな目に遭うんだったら死んだほうがまし……我ながら安い命だ。
お母さんの虐待を受け、その疲れでウトウト。
「薬が効いたのよ」
わたしの表情から『虐待』の二文字を読み取って、ピシャリとお母さんが言う。
「う、うん、効いたみたいね」
「……6度5分、お風呂入れるわよ」
「よかったあ」
ほんとによかった。生まれてこのかた三日もお風呂に入れないなんて初めてだったから、もうバイキンマンにでもなった感じだ。
「あ、恩地さんがお見舞いに来てくれたわよ」
「あ、京ちゃんが」
「三日分のプリントやら配布物。えと、これが進路希望調査票だから、明日でも記入しなさい」
「これは?」
真っ白な封筒が目についた。
「お守り、山本八幡宮でお祈りしてきたって。いいお友だちね、元気になったらお礼言っときなさいよ」
「う、うん」
ありがたい友だち……そう思うと涙が出てきた。
「はい」
お母さんがタオルを差し出してくれる。
「涙と一緒に風邪の菌も出しちゃいな」
「う、うん、ちょ、ティッシュ」
プーーズズーーー!!
派手な音をさせて鼻をかむ。 そのティッシュを丸めて屑籠に、みごとストライク。
「ね、寝言でイリヒコイリヒコって言ってたけど……ひょっとして彼氏とか?」
「え……」
「ま、元気になったら、その話も聞かせてね」
意地悪な目をして、お母さんは出て行った。
彼氏なんかじゃないんだよ。
イリヒコのこと……どうしたらいいんだろ、ソンナワケさん……。