8月15日は抜けるような好天でした。
学校はもう、7月29日の大垣空襲で焼けてなくなっていましたから、おそらく宿題なんてものもろくすっぽなかったと思います。
空襲の翌日でしたか、燃えた学校を友達と見にゆきました。
木造平屋建てのの校舎はぺっちゃんこの消し炭になって燻っていました。校庭にあった栴檀の大木のみが人間の愚行を嘲笑するようにそびえていました。この樹以外は全て平面でしたから、否が応でも目立ちました。
この樹は、敗戦後半世紀以上経過した際に呼ばれた同窓会に行った折も健在でした。
さて、1945(昭和20)年8月15日にいわゆる玉音放送があるわけですが、裸同然で飛び回っていた私たちも、陛下様に失礼があってはと真っ白いシャツに着替えさせられ、母屋のラジオの前に集められました。
母屋の十人、私たちのような疎開者、それに近所でラジオがない人など総勢20人ほどがチューニングの悪い受像機の前にかしこまって正座していました。
玉音とやらが始まりましたがあれは日本語ではないですね。方言よりももっと限られた範囲で、主として書き言葉として綴られるものですから、それを音読しても漢文の読み下しよりもさらに難解なのです。いってみれば権威ある者がコケオドシのために使う言語で、それ自身、これは権威であるぞよという以外の意味は一般にはわからないようにできているのです。
アナウンサーが解説を付したようですが、それもが曖昧模糊でわかりにくく、「よーし、役場で訊いてくる」とかけ出した者もいました。
どうやら負けたんだということが徐々にわかってきたのですが、私には解せませんでした。大本営発表では我が軍は勝利を続けていたはずなのです。相手を押しまくっていたのです。
それで相手はヤケクソになって日本本土に上陸してくる、そうすると神風が吹きそれを退散させ、運よく上陸した者たちも私たちの待ち伏せにあって全滅する、そして最終的な大勝利、それが私などが大人から聞かされた情報をつなぎあわせて作ったシナリオでした。
今から考えると、ほとんど息の根が止まっていたところでやっと降伏したのですから、上のシナリオはお笑い草も甚だしいというべきでしょう。しかし、しかしながらですよ、私達子供のみならず、大人たちの多くも上の私のシナリオとさほど違わないところにいたのですよ。
だから、原爆に竹槍という全くマンガ的な非対称こそが敗戦時の日本の状況だったのです。
これが不都合な情報は隠蔽され、「大勝利」のみが「なお、当方の損害は軽微なり」という決まり文句とともに伝えられた結果なのです。
ついでながら、私は今、北朝鮮の人たちに同情こそすれ、それを笑うことはできません。
あれはまさに70年前の日本の姿の相似形なのです。
昨年、キネ旬で一位になった邦画の『かぞくのくに』は帰国事業で北へ行った兄が一時帰国で日本へ来た際の兄妹を描いた作品でしたが、北の監視員をなじる妹に、その監視員がいった、「でも私たちはそこに住んでいるのですよ」という言葉はとても重く響きました。
いずれにしても、敗戦を境にいろいろなものがガラガラと崩れ、重しがとれた漬物の樽から這い出たような大人たちの生活が始まりました。天皇に関していえば、昨日まで、「かしこくも」と聞いただけで何をしていても放り出して「気をつけっ」をしていた大人たちが、最初はおずおずと、そして次第に大胆に、「天ちゃん」などとふざけていうようになりました。
その天皇も、東京裁判では被告席はおろか証人席にも立つことなく、戦争責任は一握りの政治家と軍人(A級戦犯7人の処刑)、それにその命令で作戦を実行したばかりに罪に問われたB級、C級戦犯の兵士など(1,000名余の処刑)の責任に帰せられて終わりました。
「一億総懺悔」などといわれましたが、一億人がちゃんと懺悔をしたわけでは決してありません。この言葉は、戦争に責任があった人も含め、誰もが責任を取らない水増しの論理を表しているに過ぎません。一億全部の責任というと聞こえがいいのですが、逆にいうと誰もが責任を取らなかったということなのです。
日本人自体の手ですぐる戦争の責任や実態を解明することなく、結局は曖昧に終始した敗戦後の「一億総無責任体制」は、今日の歴史修正主義の源流をなしています。
私の子供の頃は、戦争帰りが酔っ払って、「俺は支那で○○人のチャンコロの首を跳ねてやった」とか、軍から支給された通称・鉄兜(コンドーム)を手に、「突撃」を敢行すべく慰安婦の詰所に並び、「おーい、まだか、あとがつかえてるんだぞ」とおぞましい叫びを上げたとかいったという話は当たり前のように聞くことができました。
それは決して誇張でなく、日本全国どこででも聞けた話だったのです。
これらのほとんどが今、そんなことはなかったとか、あるいはあったとしてもそれがどうしたといわれているものです。
今から考えると、敗戦後の日本の無責任体制が私にはよく分かるのですが、いささか話が一般的になりすぎましたので、またまた「私の履歴書」へと話を戻しましょう。
あ、そうそう。大人たちは変わり身が早かったのですが、私たち子供はそうはゆきません。
「ルーズベルトのベルトが切れて、チャーチル、チルチル国が散る」などという戯れ歌を敗戦後も唄っていました。すると、「そんな歌は唄っちゃいかん」と慌てて飛んでくるのは、奉安殿に最敬礼しなかったといってビンタをくれたのと同じ先生でした。
<追記>8月15日を境にして起こった一番大きな変化は、空襲がなくなり、毎晩防空壕に飛び込まなくても良くなったことです。
にも関わらず、日本軍には16日、17日などの戦死者がいます。
そのほとんどが、敗戦を信ずることなく、あるいはそれに敢えて抗して、兵士に無謀な出撃命令を出した前線の指揮官によって引き起こされたものです。
やっと戦火から開放されたというのに、「天皇陛下バンザイ」と圧倒的な火器の前に、ほとんど裸でその身を晒し死んでいった兵士たち・・・・。嗚呼!
学校はもう、7月29日の大垣空襲で焼けてなくなっていましたから、おそらく宿題なんてものもろくすっぽなかったと思います。
空襲の翌日でしたか、燃えた学校を友達と見にゆきました。
木造平屋建てのの校舎はぺっちゃんこの消し炭になって燻っていました。校庭にあった栴檀の大木のみが人間の愚行を嘲笑するようにそびえていました。この樹以外は全て平面でしたから、否が応でも目立ちました。
この樹は、敗戦後半世紀以上経過した際に呼ばれた同窓会に行った折も健在でした。
さて、1945(昭和20)年8月15日にいわゆる玉音放送があるわけですが、裸同然で飛び回っていた私たちも、陛下様に失礼があってはと真っ白いシャツに着替えさせられ、母屋のラジオの前に集められました。
母屋の十人、私たちのような疎開者、それに近所でラジオがない人など総勢20人ほどがチューニングの悪い受像機の前にかしこまって正座していました。
玉音とやらが始まりましたがあれは日本語ではないですね。方言よりももっと限られた範囲で、主として書き言葉として綴られるものですから、それを音読しても漢文の読み下しよりもさらに難解なのです。いってみれば権威ある者がコケオドシのために使う言語で、それ自身、これは権威であるぞよという以外の意味は一般にはわからないようにできているのです。
アナウンサーが解説を付したようですが、それもが曖昧模糊でわかりにくく、「よーし、役場で訊いてくる」とかけ出した者もいました。
どうやら負けたんだということが徐々にわかってきたのですが、私には解せませんでした。大本営発表では我が軍は勝利を続けていたはずなのです。相手を押しまくっていたのです。
それで相手はヤケクソになって日本本土に上陸してくる、そうすると神風が吹きそれを退散させ、運よく上陸した者たちも私たちの待ち伏せにあって全滅する、そして最終的な大勝利、それが私などが大人から聞かされた情報をつなぎあわせて作ったシナリオでした。
今から考えると、ほとんど息の根が止まっていたところでやっと降伏したのですから、上のシナリオはお笑い草も甚だしいというべきでしょう。しかし、しかしながらですよ、私達子供のみならず、大人たちの多くも上の私のシナリオとさほど違わないところにいたのですよ。
だから、原爆に竹槍という全くマンガ的な非対称こそが敗戦時の日本の状況だったのです。
これが不都合な情報は隠蔽され、「大勝利」のみが「なお、当方の損害は軽微なり」という決まり文句とともに伝えられた結果なのです。
ついでながら、私は今、北朝鮮の人たちに同情こそすれ、それを笑うことはできません。
あれはまさに70年前の日本の姿の相似形なのです。
昨年、キネ旬で一位になった邦画の『かぞくのくに』は帰国事業で北へ行った兄が一時帰国で日本へ来た際の兄妹を描いた作品でしたが、北の監視員をなじる妹に、その監視員がいった、「でも私たちはそこに住んでいるのですよ」という言葉はとても重く響きました。
いずれにしても、敗戦を境にいろいろなものがガラガラと崩れ、重しがとれた漬物の樽から這い出たような大人たちの生活が始まりました。天皇に関していえば、昨日まで、「かしこくも」と聞いただけで何をしていても放り出して「気をつけっ」をしていた大人たちが、最初はおずおずと、そして次第に大胆に、「天ちゃん」などとふざけていうようになりました。
その天皇も、東京裁判では被告席はおろか証人席にも立つことなく、戦争責任は一握りの政治家と軍人(A級戦犯7人の処刑)、それにその命令で作戦を実行したばかりに罪に問われたB級、C級戦犯の兵士など(1,000名余の処刑)の責任に帰せられて終わりました。
「一億総懺悔」などといわれましたが、一億人がちゃんと懺悔をしたわけでは決してありません。この言葉は、戦争に責任があった人も含め、誰もが責任を取らない水増しの論理を表しているに過ぎません。一億全部の責任というと聞こえがいいのですが、逆にいうと誰もが責任を取らなかったということなのです。
日本人自体の手ですぐる戦争の責任や実態を解明することなく、結局は曖昧に終始した敗戦後の「一億総無責任体制」は、今日の歴史修正主義の源流をなしています。
私の子供の頃は、戦争帰りが酔っ払って、「俺は支那で○○人のチャンコロの首を跳ねてやった」とか、軍から支給された通称・鉄兜(コンドーム)を手に、「突撃」を敢行すべく慰安婦の詰所に並び、「おーい、まだか、あとがつかえてるんだぞ」とおぞましい叫びを上げたとかいったという話は当たり前のように聞くことができました。
それは決して誇張でなく、日本全国どこででも聞けた話だったのです。
これらのほとんどが今、そんなことはなかったとか、あるいはあったとしてもそれがどうしたといわれているものです。
今から考えると、敗戦後の日本の無責任体制が私にはよく分かるのですが、いささか話が一般的になりすぎましたので、またまた「私の履歴書」へと話を戻しましょう。
あ、そうそう。大人たちは変わり身が早かったのですが、私たち子供はそうはゆきません。
「ルーズベルトのベルトが切れて、チャーチル、チルチル国が散る」などという戯れ歌を敗戦後も唄っていました。すると、「そんな歌は唄っちゃいかん」と慌てて飛んでくるのは、奉安殿に最敬礼しなかったといってビンタをくれたのと同じ先生でした。
<追記>8月15日を境にして起こった一番大きな変化は、空襲がなくなり、毎晩防空壕に飛び込まなくても良くなったことです。
にも関わらず、日本軍には16日、17日などの戦死者がいます。
そのほとんどが、敗戦を信ずることなく、あるいはそれに敢えて抗して、兵士に無謀な出撃命令を出した前線の指揮官によって引き起こされたものです。
やっと戦火から開放されたというのに、「天皇陛下バンザイ」と圧倒的な火器の前に、ほとんど裸でその身を晒し死んでいった兵士たち・・・・。嗚呼!
いずれにしても戦争というのは常軌を逸した事態ですから、今から考えるとなぜあんなにおぞましいことをといったことがいっぱいありますね。
だからやはり、いわゆる「戦時」には絶対にしないことでしょうね。
お互い、ものごころついた頃には、何かというと「戦時中だから」といわれ、それがエスカレートしてどんどん悲惨になっていった時期を覚えている最後の世代ですから、たとえ伝言でも、それを語り継ぐことが必要だと思っています。
突撃命令が出され、隊長が真っ先に敵の砲撃の前に飛び出していったと。詔勅のあとの悲劇です。
この戦車隊の部下に、かって所属していたのが、作家の司馬遼太郎であったとか。みすみす犬死をした占守島の兵士たち、隊長も、お気の毒ですね。
子供は前後の事情をわきまえないで、周辺の情報から自分の優位に立つ言葉を使って囃し立てますから、時として残酷ですね。
ただし、これも状況判断が出来るようになれば収まるもの、その点、「在特会」といわれる人たちは、いい大人のくせに、「死ね!」とか「出てゆけ!」とかまったくおぞましい言葉で囃し立てています。
それどころか、「殺せ!」とか「殺すぞ!」とかいうプラカードやスローガンも見かけます。
これって、明らかに、「殺人教唆」や「恐喝」に相当すると思うのですがどうなんでしょう。
今日の『朝日』声欄に、こんな声が載っていました。
瑞浪・戸狩山の地下工場建設に従事していた朝鮮人と中国人捕虜がよろよろ歩いていたので、国民学校6年生だった筆者は思わず「やーい、お前ら早う死んでしまえ」と怒鳴ったというのです。
私も、大曽根にあった朝鮮人長屋の前で、「チョウセンチョウセントパカニシテ オナジママクテ トコチガウ」とはやし立てたことがありました。
また喧嘩時の野次には「お前のかあさん、デベソ」と並んであったのが、「オマエノカアチャン、チャンチャン チャンコロ ヤーイヤイ」