久々にアレハンドロ・ホドロフスキーの映画を観た。
彼の『エル・トポ』に圧倒されたのはもう何十年も前、そう、1970年代のはじめだったと思う。
当時の映画の概念を覆すような数々の映像の出現、そこにはニーチェがいると思った。『ツァラトゥストラ』によく似た寓話、自己覚醒にも似たロードムービー。しかし、そんなことはどうでもよかった。ただただその貪欲ともいえる表現への欲望の海に翻弄されたのであった。
それ以降、『ホーリー・マウンテン』、そして10年以上の間を置いてからの『サンタ・サングレ』などを追いかけて観た。
その頃のホドロフスキーはアンゲロプロスと並んで私の追っかけの対象であった。
しかし、ホドロフスキーは寡作でなかなか次の作品が出ない。
21世紀に入ってからしばらくして、もうこの人は映画を作らないんだと私のなかでは過去の監督という分類箱に納められてしまった。
だから、数年前、久々にその自伝的な映画、『リアリティのダンス』が世に出た際にも、どういうわけか私の検索範囲からすっぽり抜け落ちてしまったのであった。
そして今回の、その前作に続く伝記的な作品、『エンドレス・ポエトリー』公開を知り、満を持して観に行った次第。
自伝的な作品といってもあくまでも「的」であって、それが素材になっていることは事実としても、その描き方は例によって斬新で突拍子がない。
全編これ、現代芸術家によるパフォーマンスの連続といっていい。書割りをそのまま背景にしてしまったり、時としてその書割りを移動させるシーンそのものを画面にしたり、あるいは歌舞伎の黒子風な「補助」要員が小道具の出現や消失を手伝ったりといった手法も楽しい。
何よりもその色彩が強烈である。しかし、これでもかという色使いと、モノクロ風なものとが混在しているというその対比自体が面白い。
ホドロフスキー一家の活躍も見ものである。若き日のアレハンドロ役は、彼の末の息子だし、その父親役は彼の長男である。そこへしばしば現実のアレハンドロ(つまり監督自身)が、映画の時代から見ると未来社会から、すでに老いたる本人として現れ、アドバイスなどするのだからややこしい。
ホドロフスキー一家ではないが、母親役の女性は、そのすべての台詞がオペラのレチタティーヴォになっている。
この母親役と主人公が心惹かれる女性芸術家が同じ女優さんの二役というのも、この映画全体が実業家である父のもとを離れる主人公の芸術家としての巣立ちの過程であることからして、フロイト的な父親殺しとエディプス・コンプレックスをかなり意識した作りとなっているようだ。
最後に主人公が岸壁を離れるシーンは、アンゲロプロスの『シテール島への船出』思わせる。ひょっとしたら、同時代に活躍した彼へのホドロフスキー流のオマージュかもしれないと思って観た。
ホドロフスキーは、別のインタビューで、自由になることが芸術の過程であり、かつ目指すところだという意味のことを言っている。ようするに、あらゆる限界、有限性という意識、それらを突き破り、固定された意識から自由になることだというわけだ。
この映画のテーマもそれだし、それ自身を画面いっぱいに多彩多様に表現してみせた作品と言える。
私より9歳年上の、やがて90歳になろうという1929年生まれ、まだまだ青年の気概をもった人である。
『エンドレスポエトリー』は高らかに歌う。
生きろ!生きろ!生きろ! 命を燃やし、命を繋げ。
これは“真なる生”への招待状。 さあ、終わりなき詩を歌おう!
彼の『エル・トポ』に圧倒されたのはもう何十年も前、そう、1970年代のはじめだったと思う。
当時の映画の概念を覆すような数々の映像の出現、そこにはニーチェがいると思った。『ツァラトゥストラ』によく似た寓話、自己覚醒にも似たロードムービー。しかし、そんなことはどうでもよかった。ただただその貪欲ともいえる表現への欲望の海に翻弄されたのであった。
それ以降、『ホーリー・マウンテン』、そして10年以上の間を置いてからの『サンタ・サングレ』などを追いかけて観た。
その頃のホドロフスキーはアンゲロプロスと並んで私の追っかけの対象であった。
しかし、ホドロフスキーは寡作でなかなか次の作品が出ない。
21世紀に入ってからしばらくして、もうこの人は映画を作らないんだと私のなかでは過去の監督という分類箱に納められてしまった。
だから、数年前、久々にその自伝的な映画、『リアリティのダンス』が世に出た際にも、どういうわけか私の検索範囲からすっぽり抜け落ちてしまったのであった。
そして今回の、その前作に続く伝記的な作品、『エンドレス・ポエトリー』公開を知り、満を持して観に行った次第。
自伝的な作品といってもあくまでも「的」であって、それが素材になっていることは事実としても、その描き方は例によって斬新で突拍子がない。
全編これ、現代芸術家によるパフォーマンスの連続といっていい。書割りをそのまま背景にしてしまったり、時としてその書割りを移動させるシーンそのものを画面にしたり、あるいは歌舞伎の黒子風な「補助」要員が小道具の出現や消失を手伝ったりといった手法も楽しい。
何よりもその色彩が強烈である。しかし、これでもかという色使いと、モノクロ風なものとが混在しているというその対比自体が面白い。
ホドロフスキー一家の活躍も見ものである。若き日のアレハンドロ役は、彼の末の息子だし、その父親役は彼の長男である。そこへしばしば現実のアレハンドロ(つまり監督自身)が、映画の時代から見ると未来社会から、すでに老いたる本人として現れ、アドバイスなどするのだからややこしい。
ホドロフスキー一家ではないが、母親役の女性は、そのすべての台詞がオペラのレチタティーヴォになっている。
この母親役と主人公が心惹かれる女性芸術家が同じ女優さんの二役というのも、この映画全体が実業家である父のもとを離れる主人公の芸術家としての巣立ちの過程であることからして、フロイト的な父親殺しとエディプス・コンプレックスをかなり意識した作りとなっているようだ。
最後に主人公が岸壁を離れるシーンは、アンゲロプロスの『シテール島への船出』思わせる。ひょっとしたら、同時代に活躍した彼へのホドロフスキー流のオマージュかもしれないと思って観た。
ホドロフスキーは、別のインタビューで、自由になることが芸術の過程であり、かつ目指すところだという意味のことを言っている。ようするに、あらゆる限界、有限性という意識、それらを突き破り、固定された意識から自由になることだというわけだ。
この映画のテーマもそれだし、それ自身を画面いっぱいに多彩多様に表現してみせた作品と言える。
私より9歳年上の、やがて90歳になろうという1929年生まれ、まだまだ青年の気概をもった人である。
『エンドレスポエトリー』は高らかに歌う。
生きろ!生きろ!生きろ! 命を燃やし、命を繋げ。
これは“真なる生”への招待状。 さあ、終わりなき詩を歌おう!
そのパワー満開に圧倒された映像群でした。
カウリスマキの『希望のかなた』、名古屋シネマテークで24日から30日までと、押し詰まってからなので行けるかどうかと思っていたのですが、このデジタル版上映のほか、来年6日から一週間、35ミリ版も上映するそうですから、そのどちらかへは行こうと思っています。