この本を手にした動機は二つある。
ひとつは、『日本語が亡びるとき』という評論集を読んで以来、読み継いできた水村美苗さんの小説、『私小説』『本格小説』『母の遺産 新聞小説』などで示唆され、とりわけ最後のものではその死に至るまでの過程が記されているその母、水村節子さんというひとがいるのだが、まさにその節子さんが書いた小説だからである。
ちなみに、節子さんのこの小説は2000年の作であり、それに対し、美苗さんの節子さん(小説中では紀子さん)に触れた最後の作品『母の遺産』は2012年のものである。
美苗さんの『母の遺産』には、「新聞小説」というサブタイトルがついていて、水村さん(とその姉)、その母・節子さん、そして「お宮さん」と呼ばれた祖母との三代の女性たちが、日本の近代をどのように受容したのかという視点があり、「新聞小説」というのは、この小説が実際の新聞に連載されたことと、そして祖母の「お宮さん」が、尾崎紅葉の新聞小説、『金色夜叉』を読むなどして、恋愛と結婚との相関関係を近代風に受容してゆくこと、さらには、それがその後の女系に何らかの影響を与えてたことなどが描かれている。
したがって、美苗さんからみた母(『母の遺産』では紀子さん)を読むのみでは不公平であろうと思われる。とりわけ、その死期に近い母の描写では、母自身がその若き日に何を夢見てどう生きたのかははっきり描かれてはいない。
そこで、その母、節子さんが書いたものをもと触手をのばした次第である。
この書を手にしたのには、もう一つの動機もある。
この節子さんは本来文筆の人ではなかった。だから、母・節子さんと娘・美苗さんは、いわゆる世襲のようにして物書きになったわけではない。むしろ逆で、美苗さんの方がさまざまな意味で注目されるようになった後、母の方がこの書を上梓したのだった。しかも、70歳を越えてから文章教室へ通い、努力を重ねること数年にして78歳の折にやっと出版にこぎつけたという。
彼女の文筆活動の期間は、私自身が勉強しながらものを書き始めた年代とまさに一致し、それがゆえにシンパシーを感じるのである。
78歳まで長らえることができたら、小説の一つも書いてみたいのだが、小説には小説の独自の文体があり、私には無理だろうと思う。
さて、この書の内容であるが、主として、自分(=節子さん)とその母とを関連させながらの自伝的なものである。
最初は、その母が芸者稼業の果てに三人の男と関わり、何人かの子をなし、最後の男である作者の父からも捨てられ、その父がまた新しい妻を迎えるとあって、人間関係はきわめて錯綜しており、容易には把握できない。私がさらっと書いたこれらの内容も、読み進むうちにやっとわかる事実である。
しかし、その中での母の置かれた位置は、大正から昭和にかけての女性の立場、またそれを取り巻く富裕と貧困の格差などを通じて次第に明らかになる。
そうしたなかで主人公・節子はというと、母の生きた世界からのテイクオフを夢見る女性である。そして、その上昇志向の象徴が、父の姉の嫁ぎ先、「高台にある家」なのである。そこには、俗を超越したようなまさに近代のロマンがあるかのようにみえる。したがってそれは、しばしば母の仕草などを嫌悪しながら育つた若い節子が目指すべき重要な参照項なのである。
小説は、母の俗な世界から逃れた節子が、一応、「恋愛を経由した結婚」(これもまた近代の重要な要素なのである)を成就したことによって閉じられるかのようである。しかし、節子のその後を知る者にも、そして知らない者にも、これが「ジ・エンド」ではないことをたっぷり予感させる終章ではある。
終り近くに出てくる「もう高台にある家は私の心の中にしかなかった。」という述懐は、決して、諦観ではなく、さらに心の中のイメージを追い続ける旅路の出発でもあったといえる。
この続編があれば、さぞかしおもしろかろうと思うが、作者・水村節子は、2008年に永眠している。
この小説後の節子さんについては、冒頭に述べた娘・美苗さんの小説『母の遺産』を参照するしかない。そして、そこでも「高台にある家」は節子さんにとっての象徴的な場所として出てくる。
なお、この節子さんの小説については、娘である美苗さんの手も多少は入っているようだが、それについて美苗さんは、「私の注意に母はとても素直に従い、見違えるような文章を書いてきた」といった主旨のことをいったあと、「ただし、この小説のすばらしい部分はすべて母の手になるものです」といいきっている。
ひとつは、『日本語が亡びるとき』という評論集を読んで以来、読み継いできた水村美苗さんの小説、『私小説』『本格小説』『母の遺産 新聞小説』などで示唆され、とりわけ最後のものではその死に至るまでの過程が記されているその母、水村節子さんというひとがいるのだが、まさにその節子さんが書いた小説だからである。
ちなみに、節子さんのこの小説は2000年の作であり、それに対し、美苗さんの節子さん(小説中では紀子さん)に触れた最後の作品『母の遺産』は2012年のものである。
美苗さんの『母の遺産』には、「新聞小説」というサブタイトルがついていて、水村さん(とその姉)、その母・節子さん、そして「お宮さん」と呼ばれた祖母との三代の女性たちが、日本の近代をどのように受容したのかという視点があり、「新聞小説」というのは、この小説が実際の新聞に連載されたことと、そして祖母の「お宮さん」が、尾崎紅葉の新聞小説、『金色夜叉』を読むなどして、恋愛と結婚との相関関係を近代風に受容してゆくこと、さらには、それがその後の女系に何らかの影響を与えてたことなどが描かれている。
したがって、美苗さんからみた母(『母の遺産』では紀子さん)を読むのみでは不公平であろうと思われる。とりわけ、その死期に近い母の描写では、母自身がその若き日に何を夢見てどう生きたのかははっきり描かれてはいない。
そこで、その母、節子さんが書いたものをもと触手をのばした次第である。
この書を手にしたのには、もう一つの動機もある。
この節子さんは本来文筆の人ではなかった。だから、母・節子さんと娘・美苗さんは、いわゆる世襲のようにして物書きになったわけではない。むしろ逆で、美苗さんの方がさまざまな意味で注目されるようになった後、母の方がこの書を上梓したのだった。しかも、70歳を越えてから文章教室へ通い、努力を重ねること数年にして78歳の折にやっと出版にこぎつけたという。
彼女の文筆活動の期間は、私自身が勉強しながらものを書き始めた年代とまさに一致し、それがゆえにシンパシーを感じるのである。
78歳まで長らえることができたら、小説の一つも書いてみたいのだが、小説には小説の独自の文体があり、私には無理だろうと思う。
さて、この書の内容であるが、主として、自分(=節子さん)とその母とを関連させながらの自伝的なものである。
最初は、その母が芸者稼業の果てに三人の男と関わり、何人かの子をなし、最後の男である作者の父からも捨てられ、その父がまた新しい妻を迎えるとあって、人間関係はきわめて錯綜しており、容易には把握できない。私がさらっと書いたこれらの内容も、読み進むうちにやっとわかる事実である。
しかし、その中での母の置かれた位置は、大正から昭和にかけての女性の立場、またそれを取り巻く富裕と貧困の格差などを通じて次第に明らかになる。
そうしたなかで主人公・節子はというと、母の生きた世界からのテイクオフを夢見る女性である。そして、その上昇志向の象徴が、父の姉の嫁ぎ先、「高台にある家」なのである。そこには、俗を超越したようなまさに近代のロマンがあるかのようにみえる。したがってそれは、しばしば母の仕草などを嫌悪しながら育つた若い節子が目指すべき重要な参照項なのである。
小説は、母の俗な世界から逃れた節子が、一応、「恋愛を経由した結婚」(これもまた近代の重要な要素なのである)を成就したことによって閉じられるかのようである。しかし、節子のその後を知る者にも、そして知らない者にも、これが「ジ・エンド」ではないことをたっぷり予感させる終章ではある。
終り近くに出てくる「もう高台にある家は私の心の中にしかなかった。」という述懐は、決して、諦観ではなく、さらに心の中のイメージを追い続ける旅路の出発でもあったといえる。
この続編があれば、さぞかしおもしろかろうと思うが、作者・水村節子は、2008年に永眠している。
この小説後の節子さんについては、冒頭に述べた娘・美苗さんの小説『母の遺産』を参照するしかない。そして、そこでも「高台にある家」は節子さんにとっての象徴的な場所として出てくる。
なお、この節子さんの小説については、娘である美苗さんの手も多少は入っているようだが、それについて美苗さんは、「私の注意に母はとても素直に従い、見違えるような文章を書いてきた」といった主旨のことをいったあと、「ただし、この小説のすばらしい部分はすべて母の手になるものです」といいきっている。
でもこの水村節子さんのように、78歳まで永らえることができたら、なにか書いてみたいですね。
ひとつ温めているものがあるのですが、いろいろ読んでいると温まるどころか、自分の才能の限界を自覚してだんだん冷めてゆくようです。
これからは、虚勢を脱ぎ捨てて、教えを乞うことにしますので、どうぞよろしく。
おもしろい三題噺ですね。但し、最初のものは面白がってはいられません。
私のように、平地に這いつくばって生きてきた人間にとっては、やはり高台は憧れの地です。
しかし、集中豪雨などで、高台の家が地すべりで崩れたりするのをみると、やはり平地が無難かなとも思います。
最後の話題ですが、尾道や長崎など、やはり老人にはキツイでしょうね。
●「高台へ、高台へ」と避難を呼びかけ続け、帰らぬ人となった南三陸の女性職員。
●坪内逍遙邸は、樋口一葉の旧居を見下す高台にあったこと。
●「高台の家は子育てを始め快適でした。しかし子どもも家を出ていった60代になると、坂道は息切れするようになりました」(新聞・投書欄)