タイトルの書の読後感です。
本書の概要は既にいろいろな人が要約しているので割愛。
問題点のみ記述。
1)ルソー的な一般意志をバージョンアップした「一般意志2.0」は、ネットの、たとえば東が例に出している「ニコニコ動画」で拾えるのか。
その包接範囲なども含めてそれを彼のいう数学的意味でのモノとしての一般意志となしうるのかどうか。
2)ハーバーマスとハンナ・アーレントをともに「熟慮民主主義」としてくくっているが、これはいささか荒っぽい括りではないか。
ハーバーマスはともかく、アーレントは「熟議」や「コミュニケーション」に力点を置くのではなく、そこへと参加できる人間の可能性の条件についてつねに語っている。
それはゾーエーとしての生命活動(=労働)からの解放としての「活動」だが、それらが常にうまくゆくとはいっていない。ようするに、公共の場へと参加しうることに意義を見出しているのである。
この書の場合、そうした公共の場への参加は「ツイート」に還元されてしまうのだが、果たしてそれでいいのか。
3)集合的無意識の集積された一般意志2.0として可視化された「データベース」と、意識としての「熟議」が相補的に働いた政治のイメージが語られるが、その「相補」の具体的なイメージが見えてこない。
ニコニコ動画によるフィードバックとそれへの呼応として一応は語られているが、その双方向的なチェック機能はどのように働くのだろうか。
4)モノとしての一般意志2.0に従った政治は小さな政治を理想とするとあるが、それのみではローティのいうところの「悲惨の減少」は実現しないのではないか。述べられている「治安警察国家」の他に、たとえば、ベーシック・インカムのような政策が実施されないところでは、アーレントのいうところの「経済」や「労働」に足を取られざるを得ず、したがって常にバイアスのかかった「一般意志(?)」しか形成されないのではないだろうか。
それらの疑問を禁じ得ないのであるが、20世紀の政治を止揚した形態を、アーレントやローティに沿いながら考えてきた私にとっては、この二人に言及しながら、こうした政治のイメージが出来上がるということに、大いに刺激を受けた次第である。
著者は、これはエッセイであり論証という点に重きは置いていないという。しかし、明らかにこれまでの著者の延長上に位置づけられる論考であり、したがって、上の私の疑問などもふっきる形で、さらに論証を深められることを切望する。
「ジュリア・クリスティヴァかハンナ・アーレント」の名を挙げたのは斎藤慎爾。