私の子供の頃は正月はただの年の区切りではなくて、ある種、人格(神格?)を持った神様のようであった。
だからそれは「お正月さん」と敬称をつけて呼ばれたりしていた。
最近はあまり聞かないが、「お正月さんござった」というわらべ唄もあって、この出だしは一緒でも、そのあとは地方によっていろいろバリエーションがあるようで、私の住んでいた疎開地の西濃地方では「味噌舐めてござった」と続くのだが、なぜお正月さんが味噌を舐めるのかは今もってわからない。
だから、年末になると、「悪い子のところへはお正月さんは来ませんよ」と脅されたりもした。ちょうど、いまの子が、「悪い子のところへはサンタさんが来ませんよ」といわれるようなものだが、私の子供の頃は一般家庭ではクリスマスなどという風習はなかったから、二度脅されることがなかったのは幸せだった。
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今年のおせち これに数の子、鮭マリネー、ローストビーフですべて
で、お正月さんというのはちゃんと来てくれたのである。
元旦の朝、目覚めると、枕元には新しい下着が一式と、やはり新しいわら草履や下駄が置かれていて、これがお正月さんが来た証拠であった。
わら草履や下駄というのは、疎開地の田舎では運動靴というかズック靴は運動会か遠足の時で、普通はわら草履か下駄で過ごしたからである。時としては、遠足の時ですら、わら草履で、壊れるといけないので予備のものを腰にぶら下げて行ったりした。
さて、枕元に置かれたものたちは、クリスマスプレゼントとは違って、それらが全て新しいものであることに意味があった。ようするに新しいもの=正月で、衣服などが多少傷んでいても、正月まで待って新しいものに替えるという風習があった。
新しいもの、いいものは正月という節目を彩るものだったのであり、それをもたらすのがお正月さんだったからありがたかったともいえる。
これは何もこどもたちに限った風習ではなく、大人たちの間でもそうだった。
例えばこんな艶笑噺もあった。
若い男女がお互いに気が合って結ばれることになった。
めでたく式も済んだのだが、一向に婿殿が床入する様子がない。
今夜こそはと花嫁は待つのだがやはりそんな夜が続くのだった。
さては今でいう「草食系」かとたまりかねた花嫁は仲人を訪れた。
「あのう、いまだにあれがないのですが・・・」
「あれってなんだい?」
「それがそのう・・・」
というようなやり取りがあって、やっとその経緯を聞き出した仲人、婿殿を呼び寄せて、いったいどうしたことかを問い詰めた。
それに対して、婿殿の答えは以下のようであったという。
「へえ、あんまり良さそうなのでお正月までとっておこうと思いまして」
ことほどさようにお正月さんはありがたいものだったのである。
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近くの鎮守様で初詣
以下は今年の私の徘徊はじめである。
正月になり、0時00分とともに家を出て、近所の鎮守様に出かけた。
バス通りを横切り両側が田んぼの道までさしかかると、複数の寺で撞く除夜の鐘が遠近高低、さまざまに聞こえてきて雰囲気も上々であった。
小さな神社ではあるが、お役周りの人たちが太い丸太の薪を用意したり、接待の用意をしていた。初詣を済ますと、紙コップのお神酒と、スルメが振舞われ、薪にあたりながら知らない者同士ではあったが「おめでとうの」挨拶を交わした。
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ゴウゴウと燃え盛る薪
そうこうするうちにけっこう人数が増えて、私が帰る頃には30人ほどが境内にいただろうか。
帰り道ではもう鐘の音は止んでいた。
どうやら、今年の「お正月さん」はしかるべく落ち着いたようであった。
だからそれは「お正月さん」と敬称をつけて呼ばれたりしていた。
最近はあまり聞かないが、「お正月さんござった」というわらべ唄もあって、この出だしは一緒でも、そのあとは地方によっていろいろバリエーションがあるようで、私の住んでいた疎開地の西濃地方では「味噌舐めてござった」と続くのだが、なぜお正月さんが味噌を舐めるのかは今もってわからない。
だから、年末になると、「悪い子のところへはお正月さんは来ませんよ」と脅されたりもした。ちょうど、いまの子が、「悪い子のところへはサンタさんが来ませんよ」といわれるようなものだが、私の子供の頃は一般家庭ではクリスマスなどという風習はなかったから、二度脅されることがなかったのは幸せだった。
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今年のおせち これに数の子、鮭マリネー、ローストビーフですべて
で、お正月さんというのはちゃんと来てくれたのである。
元旦の朝、目覚めると、枕元には新しい下着が一式と、やはり新しいわら草履や下駄が置かれていて、これがお正月さんが来た証拠であった。
わら草履や下駄というのは、疎開地の田舎では運動靴というかズック靴は運動会か遠足の時で、普通はわら草履か下駄で過ごしたからである。時としては、遠足の時ですら、わら草履で、壊れるといけないので予備のものを腰にぶら下げて行ったりした。
さて、枕元に置かれたものたちは、クリスマスプレゼントとは違って、それらが全て新しいものであることに意味があった。ようするに新しいもの=正月で、衣服などが多少傷んでいても、正月まで待って新しいものに替えるという風習があった。
新しいもの、いいものは正月という節目を彩るものだったのであり、それをもたらすのがお正月さんだったからありがたかったともいえる。
これは何もこどもたちに限った風習ではなく、大人たちの間でもそうだった。
例えばこんな艶笑噺もあった。
若い男女がお互いに気が合って結ばれることになった。
めでたく式も済んだのだが、一向に婿殿が床入する様子がない。
今夜こそはと花嫁は待つのだがやはりそんな夜が続くのだった。
さては今でいう「草食系」かとたまりかねた花嫁は仲人を訪れた。
「あのう、いまだにあれがないのですが・・・」
「あれってなんだい?」
「それがそのう・・・」
というようなやり取りがあって、やっとその経緯を聞き出した仲人、婿殿を呼び寄せて、いったいどうしたことかを問い詰めた。
それに対して、婿殿の答えは以下のようであったという。
「へえ、あんまり良さそうなのでお正月までとっておこうと思いまして」
ことほどさようにお正月さんはありがたいものだったのである。
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近くの鎮守様で初詣
以下は今年の私の徘徊はじめである。
正月になり、0時00分とともに家を出て、近所の鎮守様に出かけた。
バス通りを横切り両側が田んぼの道までさしかかると、複数の寺で撞く除夜の鐘が遠近高低、さまざまに聞こえてきて雰囲気も上々であった。
小さな神社ではあるが、お役周りの人たちが太い丸太の薪を用意したり、接待の用意をしていた。初詣を済ますと、紙コップのお神酒と、スルメが振舞われ、薪にあたりながら知らない者同士ではあったが「おめでとうの」挨拶を交わした。
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ゴウゴウと燃え盛る薪
そうこうするうちにけっこう人数が増えて、私が帰る頃には30人ほどが境内にいただろうか。
帰り道ではもう鐘の音は止んでいた。
どうやら、今年の「お正月さん」はしかるべく落ち着いたようであった。
我が家は妻が実家なので、
タッパに少し作るだけです。
麹鮨もおいしく漬かりました。
今日は一日ベーコン作り(笑)