この街へ来るのは何年ぶりだろう。
街といってもどこか離れた街ではない。
私がいまもなお往来する名古屋の一角にある街なのだ。
しかも地下鉄でわずか二駅手前の「川名」には、十数年前に脳梗塞を患った折に入院した病院があり、退院してからも数年は通い続けた。しかし、この街「八事」まで足を伸ばすことはなかった。
この街へ来た最後は、まだ地下鉄などはなかった頃だから、数十年前かもしれない。もっとも、その地下鉄でこの街の下を通り、世界屈指の自動車メーカーのある街ヘは何度も行ったことはあるのだが、どういう訳かここで降り立つ機会はなかった。
地下鉄で降りたとき、正直いってどちらへ歩を進めていいかわからなかった。
なんでも、尾張徳川家の祈願所だったという広大な寺院の境内にそれはあるというのだが、その寺院への行き方がわからない。
そうこうしていると、明らかに私と同じ目的地へ行く顔見知りの人とバッタリ出会った。
「六さん、こっちのようですよ」というので同行することになったが、彼もとりたてて詳しいわけではないようだ。しかし、心強いことには間違いない。
地下鉄の出口からしばらく行くと山門と思しきものがあるのだが、それは閉鎖されていて、境内への入り口はさらに向うと矢印がある。それに沿って歩くと、いかにも結婚式場といった白亜の殿堂がある。
かつて訪れたかすかな記憶からしてこれもその寺院の一角だから、直営かどうかはともかく、その寺院の経営意図のうちだろう。
さらに歩くことしばし、横断歩道を渡ったところにやっと境内への入り口があった。
まっすぐに歩を進めれば寺院の中心部らしく、5時を回ってすっかり暮れなぞんだ先に五重塔や本堂らしきものが見えるのだが、そちらへ行っている余裕はない。
私たちはやや左手の葬儀場へと向かった。
幾分離れているとはいえ、同じ境内に結婚式場と葬儀場があるのはなんだかなぁと思わないではないが、広大な敷地を持て余しているこの寺院にとっては賢明な経営方針かもしれない。
そういえば、名古屋の私学の雄、中京大学名古屋校舎の敷地もこの寺院からの借り地らしい。
ほかならぬその大学でずっと教鞭をとっていた少し年下の友人が亡くなった。
私が出かけたのは、その彼の通夜のためだった。
知り合って半世紀来の古い友人である。
初対面は、学生時代に彼がバイトをしていた居酒屋のカウンターごしにであった。
その後いろいろあったが、今となっては何をいっても虚しい。
黙々と進む儀式に従った後、生前親しかった知己十人ほどの献杯の集いに参加し、帰宅した。
帰り着いた岐阜の街は、電線を鳴らすような木枯らしが吹きつのっていたが、幸いにも自転車で南へ向かう私にとっては追い風になるのだった。
歌いたい気分に駆られた。
口をついて出たのは「アカシヤの雨が止むとき」だった。
特に選んだわけではない。ほんとに偶然思いついたのだ。
彼とともに過ごした時代のなせる技だろうか。
今度は明るいうちに、彼が愛したというあの広大な寺院を散策してみようかと思う。
私の友人が連載しつつある小説の主人公、「サダ」にヒョッコリで逢えるかもしれない。
寺院の名は、八事山興正寺。
亡くなったのは堀田英毅君。 合掌
お手数をお掛けしました。
本来なら、私からIさんに伝えるべきだったのでしょうが(かつて、亡くなった堀田氏がカウンターの中にいた店で肩を並べて飲んだこともあります)、その体調を考え、また、亡くなったのが「喉の病気」だったことも気になって連絡しませんでした。
堀田氏についてはいろいろあるのですが、私の方から同人誌を送り続けていました。
最後に送ったものについては11月初めに礼状が来て、「一般意志などについてはそのとおりだと思いますが、反原発には賛同できません」とありました。
しかしその間に自分より若いのに逝ってしまったり、重篤な友人ありという消息聞いて、いささか消耗とのこと。
6さんも同じようなことを言ってると伝えると、それは堀田というんじゃないかと聞くので、ネットに全然触れられないIさんに「八事行」を読み上げました。
Iさんが「彼は仏文学者」というので調べてみたら、堀田さんには「〈大菩薩峠における構造上の危機〉という論文あり。内容によっては故益臣の考証と重なることあるのではないかと、うーんと。
11月のはじめに息子から電話があり、「堀田さんが入院されたそうです。なんかの検査だとかいうことです」といってきました。
まあ、70の声を聞けばいろいろあるわさ、この際しっかり検査をすれば、と思っていたところ、あれよあれよという間の急転直下の展開、全く虚を突かれた感があります。
お通夜でその顔を見てもなんかピンときませんでした。
おっしゃるとおりです。
彼のことを書かないでひたすら場所について書いたのは、なにをいってもリアルな像を結ぶことは出来ないように思ったからです。
思い出の断片が去就するに任せています。