サウジアラビア初の女性監督、ハイファ・アル=マンスールのデビュー作だという。
主人公は10歳の少女ワジダ。伸びやかな性格でチャレンジ精神が旺盛で、そしてちゃっかりとした現実派でもある。その少女の飾らない日常生活、とりわけ学校でのそれは、回教社会の厳しい戒律と男性優位で女性はその影でしかないような生活習慣の中で、ことあるごとに問題視され、教師たちの注視の対象となる。
家庭内では割合開かれているのだが、それでも制約から自由ではないし、その家庭が内包するとんでもない出来事を、やがてこの映画は暴き出してゆくであろう。
ワジダの伸びやかさと対照的なそれらの制約は、現代日本の社会に暮らす私たちにとっては実に息苦しく感じられるし、彼女にそれを迫る学校や諸々の戒律に対してつい苛立たしいものを感じてしまう。
そうした彼女に一つの明確な目標が現れる。それは、男の子たちが乗っている自転車に自分も乗るということである。夢見る少女であると同時に現実派でもあるワジダは、さまざまな手段を講じて、ジリジリとにじり寄るように目標へと迫ってゆく。その過程で、私たち観客の全てをその応援団にしてしまう監督の演出は見事である。
しかしである、やがて私たちは、映画の前半で感じていた、単にサウジアラビアの現実という制約が不条理な外圧として少女を抑圧しているという見方だけでは不十分なことに気付かされる。それらの制約を自然必然として受容するのではなく、さまざまな方法でそれをクリアーしようとしているこの少女の示す生き方は、どのような社会においても実は普遍的な意味を持ったものなのだ。
先ほど、「現代日本の社会に暮らす私たちにとっては」といった。しかし、ここにおいても様々な制約があり、私を含めた人びとは決して自由に生きているのではない。むしろ、これらの制約を自然必然のように受容してそれに絡め取られている私たちよりも、彼女のほうがはるかに自由であり、はるかにリアルに「世界」と向い合って生きているともいえるのだ。
ようするに、「文明の高み」という虚構に立ってこの少女を応援していたかのような私たちは、逆に彼女の奔放な生きる力によって鼓舞激励されているのを知るところとなる。
それともうひとつ気づいたのは、前半で彼女に制約を課しているように見える人たちも多かれ少なかれその制約を被っている人びとであるということだ。
もっとも極端にワジダを牽制する校長(共学ではない学校では、女生徒を教えるのは全て女性教師。したがって校長も女性)にしても、その私生活では何やら訳ありげで、それもどうやら社会的制約によるもののようなのである。
一面ではワジダを規制する立場の母親も、忌まわしい因習の中で嘆きや悲しみに直面しなければならない。ラスト近くのこの母娘の屋上でのシーンが二度にわたってでてくるが、それらはそれぞれ心にしみる場面である。とりわけ、そのバックに花火が上がる情景での親娘は聖家族のように輝いている。そこで伝授される未来への希望が美しく表現される瞬間である。
もう一人忘れてならないのは、ワジダの男友達、アブダラ少年のことである。この二人の間には大人たちの間にある旧弊な禁忌はほとんど見られない。それはまた、ワジダのチャレンジ精神ともども、未来への展望を象徴しているといって良い。
当初、いたずらっ子として登場するこの少年は、次第に、現実的でかつ優しさを兼ね備えた格好いい小紳士に見えてくる。私もこんなボーイ・フレンドになりたいと思う。
途中でも書いたが、この映画をアラブ社会の旧弊さとそれに抗う少女のお話としてのみ見るならば、それは遠い世界の現状をあげつらうにすぎないといえる。
アラブ社会や回教社会のみならず、この私たちの世界においては、自分たちを取り巻く各種の制約に満ちている。私たちがそれらを自然必然のごとく受容する没・世界的な立場に立つ限り、未来への開けなど訪れることはないであろう。
この映画はそれを、清々しい結末でもって私たちに教えてくれる。
重いテーマを、爽やかに描いてみせた監督の手腕に拍手を送りたい。
少女が最後に行き着く場所は、町外れの車が行き交う高速道路のような箇所である。そしてここは、広大な世界への交通とコミュニケーションが広がる可能性をもった場所なのである。
*できるだけネタバレのないように書きました。お勧めです。
主人公は10歳の少女ワジダ。伸びやかな性格でチャレンジ精神が旺盛で、そしてちゃっかりとした現実派でもある。その少女の飾らない日常生活、とりわけ学校でのそれは、回教社会の厳しい戒律と男性優位で女性はその影でしかないような生活習慣の中で、ことあるごとに問題視され、教師たちの注視の対象となる。
家庭内では割合開かれているのだが、それでも制約から自由ではないし、その家庭が内包するとんでもない出来事を、やがてこの映画は暴き出してゆくであろう。
ワジダの伸びやかさと対照的なそれらの制約は、現代日本の社会に暮らす私たちにとっては実に息苦しく感じられるし、彼女にそれを迫る学校や諸々の戒律に対してつい苛立たしいものを感じてしまう。
そうした彼女に一つの明確な目標が現れる。それは、男の子たちが乗っている自転車に自分も乗るということである。夢見る少女であると同時に現実派でもあるワジダは、さまざまな手段を講じて、ジリジリとにじり寄るように目標へと迫ってゆく。その過程で、私たち観客の全てをその応援団にしてしまう監督の演出は見事である。
しかしである、やがて私たちは、映画の前半で感じていた、単にサウジアラビアの現実という制約が不条理な外圧として少女を抑圧しているという見方だけでは不十分なことに気付かされる。それらの制約を自然必然として受容するのではなく、さまざまな方法でそれをクリアーしようとしているこの少女の示す生き方は、どのような社会においても実は普遍的な意味を持ったものなのだ。
先ほど、「現代日本の社会に暮らす私たちにとっては」といった。しかし、ここにおいても様々な制約があり、私を含めた人びとは決して自由に生きているのではない。むしろ、これらの制約を自然必然のように受容してそれに絡め取られている私たちよりも、彼女のほうがはるかに自由であり、はるかにリアルに「世界」と向い合って生きているともいえるのだ。
ようするに、「文明の高み」という虚構に立ってこの少女を応援していたかのような私たちは、逆に彼女の奔放な生きる力によって鼓舞激励されているのを知るところとなる。
それともうひとつ気づいたのは、前半で彼女に制約を課しているように見える人たちも多かれ少なかれその制約を被っている人びとであるということだ。
もっとも極端にワジダを牽制する校長(共学ではない学校では、女生徒を教えるのは全て女性教師。したがって校長も女性)にしても、その私生活では何やら訳ありげで、それもどうやら社会的制約によるもののようなのである。
一面ではワジダを規制する立場の母親も、忌まわしい因習の中で嘆きや悲しみに直面しなければならない。ラスト近くのこの母娘の屋上でのシーンが二度にわたってでてくるが、それらはそれぞれ心にしみる場面である。とりわけ、そのバックに花火が上がる情景での親娘は聖家族のように輝いている。そこで伝授される未来への希望が美しく表現される瞬間である。
もう一人忘れてならないのは、ワジダの男友達、アブダラ少年のことである。この二人の間には大人たちの間にある旧弊な禁忌はほとんど見られない。それはまた、ワジダのチャレンジ精神ともども、未来への展望を象徴しているといって良い。
当初、いたずらっ子として登場するこの少年は、次第に、現実的でかつ優しさを兼ね備えた格好いい小紳士に見えてくる。私もこんなボーイ・フレンドになりたいと思う。
途中でも書いたが、この映画をアラブ社会の旧弊さとそれに抗う少女のお話としてのみ見るならば、それは遠い世界の現状をあげつらうにすぎないといえる。
アラブ社会や回教社会のみならず、この私たちの世界においては、自分たちを取り巻く各種の制約に満ちている。私たちがそれらを自然必然のごとく受容する没・世界的な立場に立つ限り、未来への開けなど訪れることはないであろう。
この映画はそれを、清々しい結末でもって私たちに教えてくれる。
重いテーマを、爽やかに描いてみせた監督の手腕に拍手を送りたい。
少女が最後に行き着く場所は、町外れの車が行き交う高速道路のような箇所である。そしてここは、広大な世界への交通とコミュニケーションが広がる可能性をもった場所なのである。
*できるだけネタバレのないように書きました。お勧めです。
ご多用の中、映画をご覧になる機会に恵まれていらっしゃらないのに申し訳ありません。
アンゲロプロスの映画のほとんどは、紺碧の空のもとにそびえるパルティノンの白亜の殿堂からは想像できないほど、これもギリシャといった湿りっけを帯びた寒色系の映像なのですが、音楽もまた、おっしゃるように物悲しいものが多いですね。一番印象に残っているのは、「ユリシーズの瞳」での、キム・カシュカシャンのビオラの演奏で、短いフレーズなのですが、それが鳴るたびに鳥肌が立つ思いをしたものです。
さて、お尋ねの「少女は自転車にのって」の音楽ですが、それがあまり覚えていないのです。ご承知のようにイスラム社会は歌舞音曲はあまり奨励されないということもあるのかもしれませんし、それだけ画面に夢中になって音楽まで聞き分けられなかったのかもしれません。
ただし、主人公の少女がコーランを暗誦するシーンでのその抑揚は、ある種の音楽でした。そういえば、主人公はカセットで、ロック系の音楽を聴いていましたし、その母はアラブ系の美しいメロディを口ずさんでいました。コーランのメロディを教えるのもこの母でした。
そうなる前、私も『旅芸人の記録』と『霧の中の風景』を観ました。エレニ・カラインドロウの『テオ・アンゲロプロス監督作品集』というCDまで買ってしまいました。しばらくはあの物哀しい音楽にどっぷりと浸かっておりました。
音楽は、映画にとってとても重要なものですよね。ご覧になった映画の音楽は、どんなだったのでしょう?
おっしゃるようにかつての映画大国のものは総じて質的に衰退傾向にありますね。かつて面白かった中国映画も、チャン・イーモウがハリウッドに取り込まれて以降、あまりぱっとしませんし、フランスや日本でも佳作はあるものの状況と切り結ぶというより、むしろ身辺雑記に類するものが多いようです(それらを否定するわけではありませんが)。
そんななか、私がずっと追っかけてきたテオ・アンゲロプロスが残したヨーロッパ三部作の第二作目に相当する「エレニの帰郷」がまもなくやってきますのでぜひ観ようと思っています。
ギリシャという地点からず~っと戦後ヨーロッパを見続けてきたアンゲロプロスですが、一昨年、上記映画の第三作目を撮っている途中に交通事故で他界しています。
「旅芸人の記録」に魅せられて以来、日本上映作品は全て観てきたつもりなので、遺作になりそうな(第三部が編集されて陽の目を見れば別ですが)この映画は見過ごせません。
でも、これほどイスラム世界の日常に真正面から向き合って、女性の視点で内部から穿つ作品は初めて見ました。イスラム教の聖地を持つ国の映画で、しかも女性監督。途中まで、この監督大丈夫だろうかなどと、別の面でハラハラしながら見ていました。
ただワジダがあまりにもピュアで、しかもワジダに協力する無垢な少年や自転車屋のおやじなどがかっこよくて、イスラムの因襲の世界を突き抜けてしまいますね。六文さんが指摘されているように、彼女たちが解放の世界に足を踏み入れているのに対し、むしろ制約の中に飼いならされているのは私たちの方ではないかとさえ感じました。
自由を標榜する国の映画の拠点が、ゲームのようにめまぐるしいだけの単純なヒーロー映画を量産しているのに対し、困難に正面から向き合うところから優れた映画が、したたかに生まれていることに改めて気づかされますね。